書評「文章作法事典」
「文章作法事典 中村明著」
「いい文章とは、巧なことばで読み手を操る文章ではない。大切なのは何が書いてあるかだ」(ℓ106)
この文章に大いに賛成する。『魂の文章術』の書評のときに書いたが、文章を書きたいと思ったときに、一番大事なことは、何を書くかであると私は考える。
そして、私は、文章を書くのが好きである。アイデアも思考も、書くことも全て日本語でする。本を読むと言っても、昔は懸命に英語で読もうとしたが、今は、日本語のものしか読んでいない。日本語だと理解できるが、英語だと細かな心情がどうもつかめない。
最近強く思うのは、日本語でしか表せない感情があるのではないかということである。日本に住んでいるから感じることを日本語なら言い当てられそうな気持ちがする。それは、英語圏で過ごす人が英語でしかわからない感覚でもあるような気がする。アメリカンジョークについていけないときがあるように。
その違いって本当はとても大事なのではないか?
この本を読み進めていくと、
「多くのなかには都心に住む人が近郊を「いなか」として見くだす態度をそこに感じて不快に思う人もあるかもしれない。その差別意識の問題は微妙な面があって厄介だ。神経質になりすぎない程度に慎重でありたい」(ℓ122)
とある。日本語の中にも、関西弁や博多弁や方言と呼ばれるものが数多く存在する。
私が、かなり前に田舎から東京に観光バスで行ったときに、
「邪魔なんだよ、田舎者が」
という言葉を耳にした。
観光地でバスを降りるのに、高齢者もいて、道をふさいでいたからだった。
私は、その言葉をずっと覚えていて、違和感を抱いていた。すると、最近、反論する言葉を思いついた。
「東京だって、ニューヨーク、パリ、ロンドンに比べたら、田舎じゃありませんか?ニューヨーク行ったことないけど」
まぁ、小奇麗な言葉で言うと、そういう意味の言葉が浮かんだ。もっと汚い言葉だったけど。
言葉というものは、自分の価値観や気持ちを表現するときにとても大事になる。方言と呼ばれるものを聞くと、最近私は嬉しくなる。住んでいる地域とは全く違っていても、言葉遊びとして、関西弁をわざと使ってみたりする。
もちろんコミュニケーションを取るために、英語とか他の言語で話すことも大事なのは当然です。
その中で自分の気持ちを表す言語をしっかりと身につけることがいかに大事か。バイリンガルとかの人は、どの言語で、感情を表現しているのだかわからないけど。
自分の国の言葉、お国言葉、それは、あなたが生きてきたときに感じた気持ちを最もよく表すものだから。思考するための言語が、とても大事だと思うのだ。
「あなたの気持ちが、こそばゆい」
と英語でどう訳すのかはわからない。でも、日本語を理解してくれる人ならば、なんとなく伝わるのではないか。もちろん前後の言葉も必要なわけだけども。
だから、戦争などで、自分の言葉じゃないもので、教育されるということは、生まれたふるさとの自然の美しささえ失われるような大きなことなのだと心を痛める。
この本を読んでいたら、日本語って本当にいろんな表現があるんだなと思った。自分が、意識しないで使っている日本語をもっと知りたいと思った。そして、使えるようになりたいと。
書きたいことが見つかったら、どう伝わるかを考え、書く言語で、しくみを覚えていく。
あと、読み進めていって、この本を前に図書館で読んでいたことに気づいた。「推敲」(ℓ24)のところをコピーしていた。
まだ自分の言語をきちんと持つことの大切さについては思考を深める必要がありそうだ。
そして、最後にこの本のこんな言葉をご紹介しよう。
「ひとには譲れない自分の文体の熟すまで、その「文体」を、すなわち、言語というかたちの奥にある表現の心を酌んで自分の糧とするためである」(ℓ340)
(おしまい)
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