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書評『魂の文章術』

『魂の文章術』ナタリー・ゴールドバーグ著 小谷啓子訳(扶桑社新書)

この本との最初の出会いは、図書館だった。10年ぐらい前だろうか。もっと前だろうか。もう記憶にないぐらい前のことになる。その後、表紙が変わったりしたのは知っていたが、今回新書として本屋で改めて出会った。
 最初の出会いのときに、図書館の大事だと思うところをコピーしたのを覚えている。

「題材リストを作る」(ℓ47)

のところである。そこだけ見てみるのもありだと思う。
 この本を最初に読んだときの印象としては、全米100万部と書いてあって、アメリカではこういう本が売れるから、きっと日本の国語とは大違いだなと。日ごろから文章作法の本は、とりあえず目についたものは手にするようにしているが、根本的な発想が違うと思った。
 私が受けてきた日本語の教育というのは、どちらかというと、今、私が並行して読んでいる『文章作法事典 中村明著』のようなもので、日本語のしくみとか、作法についての授業というか。技術の方が重視されてきたように思う。(それも、たぶんきっと大事なことだとも思う。最近、自分の言語を使うということにとても興味があるので、別に作法の勉強をすることが悪いことだとも思わない。大事だと思うから、並行して、日本語の文章作法事典も読んでいるのだから。)
 それに対して、全米100万部のこの本は、書いてあることが根本から違う。この発想をする国には、それは意見でも勝てないんじゃないかと。
 まず『魂の文章術』があってからの『文章作法事典』であるのが、本当はいいのではないかと。
 方法を教えてからの「自由に書きなさい」じゃなくて、最初に「自由に書きなさい」があってこんなことも書いてみたら?あんなことも書けるんじゃない?の方が、なんか楽しいんじゃないかと。
 書くことに楽しさを覚えるんじゃないかと感じたのである。
 学ぶ順序の問題なのかなと思うのだが、『魂の文章術』が「書け」と言うならば、日本語の作法は、「どのように」と言っているのだと思う。
 私は、どんだけ大学に落ちても、書くことでは、嘘をつかなかった。だから、大学も落ちまくったけど。もちろん創作上の嘘は別だとして、「自分には嘘をつかなかった」ということだと思う。それは、誰かに言われたわけでもなく、八方美人で過ごしてしまうことが多い私が、言いたいことを書けるのが、唯一、文章の中だけだったからだ。
 だから、今まで書くことを嫌いになったことがない。アイデアが膨らみすぎて、書けないことがあっても、言いたいことがなくなるわけじゃないから。知らないうちにまた書いている。
 書きたいことがないのに、小説家になりたいと言う人が、たまにいるが、私にはそれはわからない。書きたいことがあり余るほどあるのに、小説家になれていないのだから。
 何を書いたらいいかと言われたら、何も書かなくていいんじゃないかと思う。あなたがわからない書きたいことは、私にもわからない。
 でも、この『魂の文章術』は、読んでいると、そうか。書いてみようと思うヒントをくれるから。

「いままでずっとひとりぼっちでいた人たちに仲間意識や慈悲の気持ちを抱くようにしてほしい」(ℓ242)

 もしかしたら、小説を書こうと思っているから、響く本なのかもしれないけど、何かぼんやりと文章にしたいなと考えていることがあるなら、一回読んでみたらいいと思う。
 まず文章を書こうと思って、最初のアクションは、「書きたい」なんじゃないかと思うのだ。その「書きたい」を具体化するために、読んでみると、なんか書けそうな気がする本だから、書くことに興味のある人なら一読してみるとおもしろいと思う。

 まだ読み途中だけど、次は、『文章作法事典 中村明著』についても書いてみたい。こっちの本もとても勉強になるので。全く別物だけども。

(おしまい)

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