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化けの皮(4/4)

「わぁ、ホント久しぶりー! 元気してた?」

「お前ぇ背デカくなりすぎだろ!」

「やっぱ地元はいいよな」

「このカルパッチョ、めちゃくちゃウマくね!?」

「俺まだ酒飲めねぇんだよ」

「来月の選挙行く?」

「あんたそういうとこ全然変わんないねぇ」

「すみませーん! ウーロンハイとカシオレも!」

 新成人になった教え子たちはみな、すっかり垢抜けた姿をしていた。だが一度口を開けば、あの頃と何ひとつ変わらない、明るく賑やかな俺の教え子たちだった。胸が熱くなった。どれだけ年月が過ぎようとも、根っこの部分は変わらないのだろうと認識した。

「百田先生、先生も何か飲まれます?」

 隣に座る藁縁が俺に尋ねてきた。あの頃は少々自主性に欠けるところがある子だったが、今では幹事を買って出るまでになっていた。

「そうだな。それじゃ生中をもうひとつ!」

 注文を聞きに来ていた女性店員に直接言った。髪を後ろで結ったその店員はこちらに軽く会釈し、ほどなく立ち去った。 

「先生、先生、聞いてくださいよ!」

 立花が大声でそう言いながら、ジョッキ片手に俺のところにやって来た。こいつは相変わらずひょうきんな性格だ。カルパッチョのソースが頬についたままのところとか、特に。

「コイツ今、峰と付き合ってるんすよ! 隅に置けないっすよね!」

 立花は藁縁と峰を交互に指差した。それにつられて二人の目が合うと、間もなく恥ずかしげに視線を逸らした。峰は当時の勝気な面影を残しつつも、目で追ってしまうような美人になっていた。

「へぇ~、お前らがな」

「あぁ、はい、まぁ……」

「式にはちゃんと呼んでくれよ」

「はい、勿論です!」

「おいおい、結婚することは否定しねぇのかよ! おアツいねぇ! ヒューヒュー!」

 立花の揶揄に、回りの子たちも、男女問わずに二人をはやし立てた。

「立花、貸し切りだからって騒ぎすぎだぞ」

「いぃじゃないっすか、今日くらい。無礼講ってヤツっすよ」

「それはお前の台詞じゃない。ほら後ろ、邪魔になってるぞ」

 立花の後ろに髪を結った女性店員が立っていた。トレーに多くのドリンクを載せている。

「あっと、これは失礼! 僕も配るの手伝いますね!」

 立花がニコニコと仕事していても、店員はまったくリアクションせずに自分の仕事をこなす。俺の前の空のジョッキを取って、新たに生中を置いた。

「あ、ありが――」

 店員と至近距離で目が合った。途端、店員は微笑んだ。整った顔立ちによる洗練された笑みだった。だが俺は軽く寒気を覚えた。その理由を理解しようとしている間に、店員は既に手の届かないところまで歩き去っていた。

「なぁなぁ見たか? 今の子メッチャ可愛かったぞ」

「えっ、マジで? 次来た時ガン見するわ」

「タイプの子だったら連絡先聞くわ」

 安津や水宇里たちがはしゃいでいるのを見ながら、俺はジョッキに口をつけた。そのタイミングで、俺の横の席に立花が座った。

「そう言えば、先生は予定ないんすか?」

「予定? 何の?」

「何のって、結婚っすよ、結婚。さすがに彼女はいるんでしょ?」

「あぁいや、そもそも彼女すらいない」

「えっ、マジっすか?! やっぱ教師は出会いが少ないってホントなんすね」

「どこの情報だ、それ?」

「あ、彼女で思い出したんですけど」

 藁縁は声を潜め、俺に顔を近づけた。

「あの噂って本当だったんですか?」

「あの噂?」

「当時、先生が笹倉さんと付き合ってたって噂です」

 噂になってたのか。まぁ、ならない可能性の方が低いか。

「あ、俺も知りたい知りたい!」立花もまた詰め寄ってきた。「どうなんすか、先生。この際だから洗いざらいゲロっちゃいましょうよ」

「酒の席でその表現はどうなんだ?」

「いいからいいから、教えてくださいよ」

「……まぁ、その噂は――」

「ホントだよ」

 ハッキリと通る声だった。振り返ると、髪を結った女性店員がすぐそこに立っていた。両手に揚げ物を載せた大皿を持ち、それを俺たちのいるテーブルの空きスペースに置く。

「私と太郎くんは相思相愛の関係で、私、スゴく大切にしてもらってたんだから。それと太郎くん、私と二人の時は、赤ちゃんみたいに甘えん坊だったよね」

 状況整理が追いつかない。酒のせいか? いやシラフでもこんなの混乱するに決まってる。よく見れば彼女の髪を結っている髪留めには、子どもっぽくてちゃちな、ピンク色のリボンがついていた。

「まさかお前、笹倉……なのか?」

 彼女は絵に描いたような笑みを浮かべた。

「久しぶり、太郎くん」


 酔いは完璧に醒めていた。むしろ夢を見ているんじゃないかとさえ思った。だが、俺の右腕に絡む笹倉の感触は、間違いなく現実だった。

 衝撃の再会の直後、笹倉は激しい質問攻めにされた。だがそれを微風のようにスルーして、彼女は俺に耳打ちした。

「同窓会が終わったら駅前のマックで待ってて。そのあと二人きりで、ね?」

 そう言って彼女は仕事に戻った。今度は俺が質問責めに遭う。もっぱら、当時どこまでの関係だったかという類いの質問だった。

 俺は彼らのそれにほどよく曖昧に答えてあしらった。男子たちからは主に疑念の眼差しが、女子たちからは主に軽蔑の眼差しが向けられたが、なんとか耐え忍んだ。笹倉がテーブルに来る度に揶揄されても、必死に凌いだ。
宴もたけなわ、同窓会はお開きとなった。

 店を出てすぐ、俺は教え子たちと別れた。二次会に行くかどうかを相談する声の中に混じって、俺のことを話している声が確かに、それも複数聞こえた。俺はそれを聞こえないフリをして、マックに直行した。

 隅の方の席でちびちびとコーヒーを飲みながら笹倉を待った。当時のことや話したい内容などを考えていたら、時間はあっという間に過ぎた。

「ゴメン太郎くーん、お待たせ!」

 笹倉は現れた。周囲のことなど気にせず、明るい声で俺のことを呼んだ。
深夜帯に漂う、独特の陰鬱な空気が、彼女の登場で途端に霧散したような気がした。疲れ気味だったサラリーマンも、密やかにじゃれ合っていたカップルも、資格の勉強をしていた学生も、せっせと仕事をしていた中年男性店員も、華やかなオーラを放つ彼女に目を奪われた。

 思えば出会った当時から、彼女は人の注目を惹くのが上手い子だった。天性のアイドル気質とでも言おうか、常にラメ入りの空気を纏っているように華があった。さらには声色や話し方、仕草ももれなく愛らしい。校内でも外でも、誰もが笹倉のことを目で追っていたように思えた。

 それが数年の間にさらに磨きがかかっていた。アイドル的というよりもスター女優のような、華やかさと煌びやかさを兼ね備えたオーラを感じた。
だが先ほどのダイニングバーではそれほどの存在感はなかった。声を掛けられるまでほとんどその存在に気づけなかった。もしかしたら、オーラをコントロールする術を身につけたのかもしれない。

「どうしたの、ボーッとして?」

 気づけば笹倉は俺の顔をじっと覗き込んでいた。

「え? あぁ、いや……久々に会ったもんだから、何と言うか、見とれてた……」

「ふふふ、そんなことだろうと思った」

 薄いピンク色の口紅をつけた唇がマフラーに隠れて、またすぐに出てきた。その動きで、耳にかかっていた艶髪がハラリと垂れた。笹倉は指で髪を耳にかけ直す。たったそれだけの行動でも、俺の心臓は鼓動を早めていた。

「何か頼むか?」

「ううん、いい。それより早く二人きりになりたいな」

 周囲の視線がさらに俺たちに集まったのを感じた。俺はそそくさとトレーを片付け、逃げるように笹倉と店を出た。

 間もなく笹倉は俺の腕に絡んできた。黒っぽい厚手のダッフルコートの向こうに、ふかふかとした感触が確かにあった。これがもし夢だったとしても、気分のいい目覚めになるだろう。

 気づけば、質素なイルミネーションに彩られた大通りから、安っぽいネオンが点々と灯る仄暗い路地へと移動していた。

「あそこでいいよね」

 笹倉の視線の先には怪しげにライトアップされたラブホテルがあった。学生時代、当時の恋人と一度利用したきりだ。不慣れであることを笹倉に悟られたくはないからに、俺は率先して入店する。

「ねぇねぇ、ここにしようよ」

 キョロキョロしている俺を尻目に、笹倉は即座にパネルを見つけて部屋を選ぼうとしていた。

 思い返してみれば、当時デートをしていた時も、彼女はいつも俺の前にいることが多かった。ハイテンションで俺の手を引っ張り、好みのものが目に入ったら一直線に走っていって、「太郎くん、早く早く!」と至極嬉しそうに俺を呼ぶ。周囲には快活な娘と若々しい父親ないし年の離れた兄などと思われていたかもしれない。俺からすれば元気な子犬の散歩のようだと思ったことがあった。

 部屋に入った途端、笹倉は俺に抱きついてきた。あの頃のような無垢なものではなく、互いの体温を、心音を、肉質を、全身で舐めとるような動きだった。

 あの頃とは違う。そしてあの頃のように、世間体を気にする必要ももうない。

 俺もまた彼女を抱き締めた。見つめ合って、濃密な口づけをして、また見つめ合う。胸がより高鳴る。交わす言葉もなく、笹倉はスラッとした手と小さな頭を、熱く固くなった俺の股間に――

「ちょっと待ってくれ」

「もう待てない。だって八年も待ってたんだから」

「いいから待て!」

 見上げようとする笹倉の頭を押さえ、俺は彼女の頭頂部周囲の髪を丹念に掻き分けた。

「なに? ゴミでも着いてた?」

「お前、ほくろはどうした?」

「ほくろ?」

 笹倉は顔を上げた。

「頭のこの辺りにあっただろ。俺が可愛い可愛い言ってたら、『子ども扱いしないで』って、半ばマジで不機嫌になってたあれ」

「……あぁ、あれね」笹倉は俺から目を背けた。「きっとあの事故の時の手術で、皮膚の移植とかされて、なくなったんじゃないかな」

「じゃあそれはどんな形でいくつあった?」

「何でそんなこと聞くの?」

「いいからはぐらかさずに答えろ」

 笹倉の視線が泳いだ。ほどなく彼女は口を開く。

「小さい点みたいな形のが二つあったはずだよ」

 ややあって俺は彼女を引き離した。背中が熱くなり、鼓動が早くなっている。

「ちえりの頭にはハート型のほくろがひとつあったんだ」

 彼女は口を真一文字に結んだ。俺はさらに彼女から数歩距離を取る。

「君は、一体誰なんだ。何でこんなことをする……!?」

 俺たちは見つめ合った。長い沈黙を破ったのは彼女の軽い溜息だった。

「ハッタリとかじゃないみたいだね」彼女は立ち上がった。「あぁあ、そんなとこまで見てるなんて、わかりっこないよ。久々にあの子に嫉妬しちゃった」

「正直に話してくれ。君は一体誰なんだ」

 彼女は部屋の奥へと進んだ。そしてキングサイズのベッドにダイブした。俺は彼女に近づいたが、適切な距離を保つ。

 彼女はゴロンと仰向けになる。「私は笹倉ちえりだよ」

「誤魔化さないでくれ」

「誤魔化してなんてないよ。本当に私が笹倉ちえりなの」

「……意味がわからない」

「でしょうね」彼女は身を起こして、ベッドの縁に長い脚を垂らした。「私たち、入れ代わってたの」

「なに?」

「だからね、入れ代わってたの。大場七海と」

「――は?」

「だから、あの頃太郎くんが愛していた子は、『笹倉ちえり』を名乗っていた大場七海だったの。そして当時の私は『大場七海』を名乗る笹倉ちえりだったの」

 俺はまだ酔っているのか? それともやっぱり夢でも見ているのか?
理解が追いつかない。そんなことがあるのか。

「順を追って説明してあげる。長くなるから、ここ、座ったら?」

 彼女は自分が座るベッドの横をポンポンと叩いた。俺はそこには座らず、ベッドの横にあるソファに腰かけた。

 彼女は肩を竦めたが、ほどなく語り出した。


 あの子と私は幼稚園で知り合ったの。その頃はお互いの顔とか背格好が本当によく似てて、まるで鏡を見てるみたいだった。だから私たちは自然と仲良くなって、よく私の家で遊ぶようになったんだ。

 そしてある時七海が、まぁ太郎くんからしたらちえりがね、言ったの。「お互いの親が気づくかどうか、試してみない?」って。

 それがあの狡猾な女の悪事の始まり。そもそもあの子はそういう魂胆があって、私と仲良くするフリをしていたの。腹の底では、自分と同じ顔をした人間が、自分よりも遥かに劣ってることに嫌悪してたみたいよ。

 そうとも知らず、私は二つ返事でそれをのんだ。そして私は大場七海に、七海は笹倉ちえりになり代わった。

 当時の私はあの子に対して強い憧れみたいなものもがあったんだ。

 あの子の家はとても裕福で、可愛い服とか髪飾りとかたくさん持ってて、それでもってあの明るい性格でしょ? 私以外にも友だちがたくさんいたし、あの子に好意を持つ男の子はたくさんいた。引っ込み思案で人見知り、ごくフツーの家庭に生まれた私には、あの子はとても眩しかった。そんな子になれるチャンスがくるなんて、魔法をかけられたシンデレラみたいなものだったよ。

 私たちは少しずつ少しずつ、入れ代わる頻度と時間を増やしていった。それでも親も友だちも先生も、その変化には気づいていなかった。

 そしてある時、七海はまた言ってきたの。「このまま『笹倉ちえり』になってもいい?」って。

 確かに私も『大場七海』になりたいって思ってたよ。でもそれはあくまであの子みたいになりたいってだけで、彼女本人になりたいわけではなかった。

 不安要素はあの子の両親が変だったから。父親は妙に仕事の自慢話して私のことを甘やかしてくるし、反対に母親は私のことを全然可愛がってくれなくて赤の他人よりも扱いが冷たかった。多分父親はその頃にはもう会社をクビになりそうになってて、母親はもともと頭が可笑しい人だったんだろうね。

 七海はそれに気づいてて、私にそんな提案をしてきたんだと思う。でも当時の私には、そんなことわかりっこないかった。最終的には七海の強引さに負けて、私はその提案をのんでしまったの。


「ここまではいい?」

「……あぁ、何とか」

「その後私がどうなったのかは、先生なんだし、大体知ってるんでしょ?」

「まぁな」

「それじゃその辺りの説明は省いて、太郎くんが一番気になってるであろう、あの夜の出来事を話してあげる」


 あの夜、私は七海に、太郎くんにとってはちえりに呼び出された。「何を企んでるんだ」ってね。

 そこで私はあいつに、あいつと太郎くんの関係を周囲にバラすって言ってやったの。決定的瞬間を録画したことも、それで太郎くんを揺すってることもね。暗くてよく見えなかったけど、その時のあいつはきっと怒り心頭だっただろうね。

 そこにつけこんで、私は七海に提案したの。「元に戻るなら、今ここで録画したテープを捨ててあげる。ただし、太郎くんが私たちのどちらかを選ぶって条件は生かしたままでね」って。

「今さらそんなこと無理だ」ってあの子は激怒してたよ。「力ずくでテープを奪い取る」とかも言ってたかな。

 私だって、無理なことは百も承知だったよ。さすがにもう顔も背格好も違ってる。入れ代わったら間違いなくバレる。けど、ここまできて引き下がるわけにもいかない。とにかく提案をのませようと、私は言葉巧みにあの子のことを揺すった。

 七海からしたら、このままいけば、太郎くんが自分を選んだ場合は自分たちのことが公にされてしまう。でもそれを回避しようとしたら、私に太郎くんを取られてしまう。それは間違いなく屈辱的だよね。

 けど元に戻った場合、その時点で太郎くんの先生としての立場は保証される。あとは太郎くんが何を優先するかの問題になってくる。そして七海は、太郎くんは自分の立場を優先するって考えた。そうなれば、大場七海に戻った自分を選んでもらえる。一緒に帰ろうって言っても断られたりしたことが多々あったみたいだし、そういう考えになるのも無理はないよね。

 七海は私の提案にのった。そのあとお互いのジャージを交換したりしてるうちに、太郎くんが私たちのところに来たってわけ。

 そして太郎くんは私を選んでくれた。自分の立場よりも相手のことを思ってくれたっていうのに、七海は太郎くんのことを信じることができなくて、撃沈した。それがあまりにもショックで、あんな行動に出たんだろうね。
けどまぁ、結果的に崖から落ちて正解だったよね。邪魔なあの子は死んで、私は助かった。おまけにこんなに綺麗な顔に整形してもらえて、周りに入れ代わりがバレることもなかった。

 神様は甘い汁を啜って生きてきたあの子じゃなく、辛い目に遭ってた私を救ってくれたんだよ。


 頭が重かった。手で押さえていなければ、そのまま首から落ちて床に穴を空けてしまいそうだ。

 俺は横目で笹倉を、いや俺にとっては大場を見た。

 彼女はいつの間にかコートやマフラーを取って、黄色いブラウス姿になっていた。さらには室内にある冷蔵庫で購入したファジーネーブルの缶チューハイをチョビチョビと飲みながら、ベッドの上で寛いでいる。

 その表情は、俺が知っている笹倉のしたり顔ではなく、いつか見た大場の不敵な笑みそのものだった。ダイニングバーで見せたあの表情も、今思い返せば大場特有のそれだった。

「全部、お前の企み通りだったのか?」

「企み?」

「笹倉は、笹倉に成りすましてた大場は、確かにお前をハメて、お前に辛い目を遭わせた。だが、あの子は死んだ。お前があの子を殺したようなものだ」

「それは違うよ。むしろ七海を殺したのは、太郎くんだよ」

「何だって」

 大場は空になった缶をサイドテーブルに置く。

「言ったでしょ。あの子はね、太郎くんのことを考えて、教師としての立場を考えて、私との賭けにのったんだよ。太郎くんにそんなつもりはなかったとしても、太郎くんがあの子を選ばなかったばかりに、あの子は怒り狂って、そして死んだ」

「あの場でお前らが入れ代わってるだ誰が予想する……! 明かりもなかったんだからわかりようがないだろ……!」

「本当にそう思う?」

 大場は冷蔵庫を開け二本目の缶チューハイを買っていた。今度はバナナミルクだった。カシュッ! と音がした。

「頑張って似せてたとは思うけど、でも声はそこまで似てなかったはずだよ。違和感はなかった? 私が太郎くんに抱きついた時は? そのあと七海が『太郎くん』って口にした時は? 判断材料は決してゼロではなかったよ」

「それは……」

 それに、と大場は俺の隣に腰かけた。

「私が死んで、あの子が助かってた可能性だってあったんだよ? その場合は間違いなく、あの子はまた私に成りすましたはず。そうなったら、太郎くんは何の疑問も持たず、私がどんな目に遭ったかも知る由もなく、遅かれ早かれあの子のことを抱いたんじゃないの? 『大場七海』なんて子はそもそもこの世には存在しなかったみたいに」

 返す言葉がまったく見つからなかった。また頭が重くなる。

「それで、どうするの?」

 缶をテーブルに置き、大場は俺の腕に絡みついてきた。ミルキーな香水の香りと微かな酒の臭いが、いたずらに俺の鼻をくすぐる。

「どうする、って?」

「みなまで言わせないでよ」

 肘がたわわな胸に包み込まれた。

「太郎くんは私を、真の笹倉ちえりを愛してくれるの? それとも、化けの皮を被っていた、今はもうこの世にはいない笹倉ちえりのことを想い続けるの?」

 俺は口を開いた。だが言葉は喉の奥でせめぎ合い、一音として発することはできなかった。

 そうこうしているうちに、大場はゆっくりと黄色いブラウスのボタンを外し始めている。

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