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一期一会

 杤木真(とちぎ まこと)は自他ともに認めるイチゴ好きだ。

 一日三食必ず二パックのイチゴを食すのはもちろんのこと、シーズン中は三日と開けずイチゴ狩りを堪能し、イチゴの名のつく新商品が発売されれば迅速に網羅し、甘くないレビューを述べる。それが高じて、利き酒ならぬ「利きイチゴ」さえできるようになった。

 真は自宅アパートのリビングで険しい顔をしていた。彼の目の前のちゃぶ台の上には、目にもおいしそうなイチゴのショートケーキがひと切れある。これは都内某所で限定百五十食、それも年に一度しか販売されない逸品だ。ファンの間では『幻のケーキ』『キングオブショートケーキ』と称されている。

 真も苦心の末遂にこれを手に入れた。それも最後のひとつを奇跡的に。これは天恵と言わんばかりに、真は嬉々としてこれを購入した。

 だがその帰り道で、真はある大きな問題に気づいた。それはこのケーキをどのように食べるかということだ。つまるところ、上に載っているイチゴを最初に食べるのか、途中で食べるのか、最後に食べるのか、究極の三択を迫られているのである。

 真は普段、この問題を避けるために同じものを三つ購入し、最初→途中→最後の順番で食べる作戦を取っている。幻のケーキにおいてもその作戦を実行しようと、かねてから考えていた。幸い、幻のケーキはひと組につき三つまで購入可能だった。

 だが真はそのことを完璧に失念していた。早朝から待機していた疲れや、ケーキが次々に売れていく危機感と焦燥感、そしてラストワンを奇跡的に購入できた喜びで、頭から飛んでしまったのだった。

 真は腕を組み、座椅子に凭(もた)れかかる。薄汚れた天井に向かって、重々しい呻き声を発した。

「マジでどうすればいいんだよぉ……」

 言葉は半ば泣きそうな色味を帯びていた。真の頭の中では泥沼と化した三つ巴(どもえ)の論議が長時間にわたって繰り広げられていた。

 イチゴを最初に食べる理由、それは本能である。何を差し置いてもイチゴが大好きなのだから、その食欲にどこまでも正直になり、何を差しおいても真っ先に齧(かじ)りつくべきできである。いの一番に口の中に広がる、あとを引くのにしつこくない甘さとほのかな酸味。それがもたすのは、母親に抱かれた赤子が感じるような幸福。膨れに膨れ上がった空腹感と期待感とが相まって、その味は至高となること必至だ。

 イチゴを途中で食べる理由、それは救いである。どんなに完璧な味と舌触りを有するケーキであろうと、必ずやその感動に慣れてしまう。『慣れ』とはつまり『飽き』である。完璧なケーキに対してそのような尊大な態度を取ろうとは、人間とはかくも愚かな生き物だ。それをケアするために、多くの人々は紅茶などの飲み物と一緒にケーキを楽しむのだが、そんなものを用意するくらいなら、そのお金でイチゴを買ってしまうのが真である。飲み物の代わりに、真はイチゴで口直しをする。「メインであるはずのイチゴを口直しにするなど無礼千万だ!」という意見も、真のイチゴ仲間からはあった。本人もそれは重々承知している。だがそれを考慮しても、口内にまとわりつく生クリームやスポンジの甘さを、爽やかかつ優しくリセットしてくれるイチゴの味は、涙が出そうになるほど偉大だ。その偉大さを例えるならば、絶望の淵に立たされた人間の前に降臨する神である。

 イチゴを最後に食べる理由、それは成就である。いの一番に食べたい衝動に耐え、『慣れ』や『飽き』などといった傲慢な感情にも耐え、一番おいしいものを最後の最後まで残して食べるイチゴは、まさに『とっておき』。そう、この瞬間まで大事に大事に取っておいたのだ。空腹感は満たされつつあるものの、いまだ膨らみ続けていた期待感はもはや限界に達する寸前である。しかし、箱入り娘のように守り抜いてきたイチゴに対して、雑多な扱いをしてはならない。一口一口、小さな種一粒に至るまで、その味を噛み締めて、心ゆくまで堪能しつくす。それを食べ終えた時には、エベレスト登頂に匹敵するような達成感と幸福感がじわじわと心の中に芽生えていくのである。

 真は呆然とケーキを見つめていた。やがて、なぜお前はひとつしかないのだと恨めしささえ沸き上がってきた。

 おもむろに、ケーキに向かって指をパチン! と鳴らした。

 刹那、ケーキがモゾモゾと動き出し、細胞分裂が如く三つに増殖――するわけがない。

 ポケットからハンカチーフを取り出す。それを優しくケーキに被せ、ワン、ツー、スリー! の掛け声と共にパッと取り去ると、なんとケーキが三つに増え――るわけがない。

 机の上から木でできた杖を取り出す。それを用いてケーキを三つに増やす魔法をかけ――られるわけがない。そもそもそれは魔法の杖でも何でもなく、いつ買ったかも忘れてしまった未使用の鉛筆だ。

 両手をケーキに掲げて念力を送っても無駄。机の引き出しをあけてもタイムマシンなどはなく、時計の針を弄っても時間が巻き戻ることはない。
現実。ケーキは今ここにそのひとつきりしか存在しない。それが現実なのである。

 突然、真は苛立ちの雄叫びを上げた。

「駄目だ! これ以上考えると頭がパンクしちまう! 一回シャワーを浴びて、頭を冷やしてから考えよう」

 真は一旦ケーキを冷蔵庫に避難させると、服をその場に脱ぎ捨てて急いで浴室へ向かった。

 初春の風呂場はまだまだ寒い。しかし真はあえてシャワーから水のみを勢い良く出して、全身に浴びた。

 心臓が止まるかと思うほどの冷たさが駆け巡る。だがこれも最高の状態でケーキを楽しむため。煩悩を捨てて悟りを啓くが如く、真摯にその答えを探し出す。

 水の冷たさで唇が青くなろうとも、体の震えが止まらなくとも、真は考えることを止めなかった。そしてついに納得のいく結論を導き出した。

「最初に食べよう!」

 真はお湯で体を温めることも忘れて大雑把に体を拭くと、一直線に冷蔵庫へ向かった。中には待望のケーキがいた。待ち合わせ時間に遅れてしまいながらも、律義に待ち続けてくれた恋人のように佇む。

「待たせて悪かったな」

 真は照れ臭そうにそう呟くと、丁重にケーキを取り出した。そして花嫁を抱えて歩く花婿の如く、凛としてリビングに向かった。一糸纏わぬその姿ももはや神々しい。

 刹那、真は強烈な鼻のむず痒(かゆ)さを覚えた。これは間違いなく大きなくしゃみが出る予兆である。

 焦る真。下手をすればくしゃみをした反動でケーキを皿から落としてしまいかねない。覆水盆に返らず。落ちたケーキ元に戻らず。
真はケーキをちゃぶ台に避難させようと慌てて足を踏み出した。が、そこには脱ぎ捨てた服があった。

 真は無様に倒れた。ケーキは皿を離れて宙を舞い、真の頭上に落下した。
静まり返った室内に特大のくしゃみが響く。悲哀に満ち満ちた泣き声もほどなく聞こえてきた。

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