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読書感想 向坂くじら『いなくなくならなくならないで』を読んだ

こんにちは。芥川賞候補作に選ばれた向坂くじらさんの初小説『いなくなくならなくならないで』を読み終えました。

大学三年の秋、時子のもとに四年前に自殺したはずの親友、朝日が現れて、止まっていた時間は、ずれていく時計のように動き出す。あらすじはそんな感じです。

向坂さんは以前から詩の活動で気になっていて、日常生活や身体感覚の描写から、命というか生きていることというか存在していることの輪郭を鮮明に描くひとだなあと思っていたのだけれど、その感覚の鋭さがよく表れている小説だと感じました。



(ここからは作品の詳細も含むので未読の方はご自身の判断で。)

作品の冒頭のほうで
「わたしがいるとこには、ほかの人はいれない」「いるっていうことは、かかるっていうことだよ」「お金もかかる、時間もかかる、世話とかなんか、人の気持ちが、場所が、私がいるだけの場所が、絶対ひとりぶんかかるんだ」

という朝日の台詞があって、そういう存在していることのどうしようもなさが物語の軸になっ
ている。
大きく泣いて大きく笑う朝日はきっとたくさん場所や手の「かかる」人間で、そこに時子は惹かれて振り回されながらも、引け目や疎ましさを感じている。
でも他ならない朝日自身が自分の人生に振り回されて自分の人生に苦しめられていて、いたいといなくなりたい、いてほしいといなくなってほしい、二人の間でぶつかり合う交錯した感情。
作中にある比喩や類比をひとつひとつ考えてみることもできるけれど、描写やそこにある絡まった気持ちをほどいていくよりは、絡まりとして見るほうがよい気がするから、解釈みたいなのはこのくらいにしておこう。

ここからはもっと雑多に、自分が思ったことを書いてみる。
ずっと会わなくなっても心の拠り所にしていた人と、機会があって再会した時に、もう違うんだって思ってしまうこと誰しも割とあるんじゃないかな。
お互いがお互いの場所であるような関係というのは、けっこう狭くて脆い。自分が別の居場所を得てしまったり、相手の心のなかの自分が占めるところがもうなくなったり。

時子は心の中でいなくなった朝日の占めていた部分を大切に抱きしめていたけれど、それは昔の朝日と自分との居場所であって、再会しても胸の穴は埋まらないどころか、かつて居た場所すら塗り潰されていくような。
他人の場所だけじゃなくてかつての自分の場所すらも塗り替えていく、流れる血や肉の痛み。
そういうことに耐えられなくて思い出の場所や空白を大事に守っている間も誰かをそこから締め出していて、どうすればいいんだろう。

肉の痛みなんか忘れて、御守りみたいな石を抱きしめて、何処にも誰もいないふりをして生きていたいよー。と思うのだけれど、現実的にできる最善の行為は距離を保つことくらいなのだろうね。やっぱり一人暮らしが気楽で好きだ。時子は一人の時間をどう過ごしていたんだろうな。
きみはそこにいていいですよ、わたしはここにいますよ、と遠巻きなやり取りばかり自分はしていると思う。むしろ自分が向き合うべきはこの遠さの問題な気もする。

今日はなんだかまとまりの無い文章ですみません。でもこのままでいい気がしたから、このままで上げておこう。おやすみ……。

今日の晩酌でした。これ好きかも

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