続・人間をコンテンツ化しない話

こちらの記事、見える範囲では概ね同意や好意的な意見で安心しています。「思ってたけど言語化できなかったのがここに書いてあった」のような反応もあって、書いた甲斐があります。

タイトルを「続」とした今お読み頂いているこの記事は、そういった他の方の反応を見てあらたに気づけたことや、整理できた思考の補足や追記を述べていきます。

推しとの距離感

noteで以下のふたつ、引用して頂きました。

前者、バジリスクこなみさんは『推しとの優しい隔たり』について、後者、タカヒナさんは『適切な関係性』について書かれています。

『優しい隔たり』の話は、「推しとファンの間に隔たりがあることでお互いが快適でいられる」こと、
『適切な関係性』の話は「あくまでタレントとファンの関係性であり、それを超えた行いはよくない」ことについて述べられています。

通常、一人の人間のグッズを買いまくったり、その人を見るためだけにはるばる遠征に行ったり、それは一般的な人間関係では起こり得ないだろう。
しかし、それで関係が成り立つのは、我々とアイドルの間での「隔たり」がきっちり存在するからである。

『「推しとの優しい隔たり」について』バジリスクこなみ

「コンテンツ」とは、

そのジャンル或いはパッケージを適正範囲内で楽しむもの。

がたぶん言語化すると近い。
明確な言語化ができないけど、このあたりならニュアンスが伝わるかなと思っています。
「コンテンツ」から一歩だけ踏み込むと「推し」になるというのが私自身の考え。
なので「コンテンツ」より一段階深くなるイメージですかね。

『せっかく応援するなら正しく楽しもう。』タカヒナ

タカヒナさんは「おりがみさんの言う"コンテンツ化"(の"コンテンツ")と、ここでの"コンテンツ"という言葉とは異なる」といった注釈を添えています。
(わたしも同一ではないと解釈しましたが、排他する・相反する概念ではないです)

声優の仕事・「◯◯役のAさん」は(アニメやゲームと同様)コンテンツだけども、コンテンツを問わず声優さん個人を応援することは単なるコンテンツの消費より1段階先の行為であり、その段階が「推し」である、といった感じでしょうか。

いま「消費」という言葉を用いましたが、コンテンツという言葉はおそらく「消費財」(経済学用語のそれ)という点でタカヒナさんのものと共通している部分があるものと思います。
・わたしの言う「コンテンツ化」とは、人間としてのタレントを消費財のように扱うこと。
・タカヒナさんのいう「コンテンツ」は、声優の仕事自体は消費財のひとつであるということ。

タカヒナさんの「推し」の概念は、声優の仕事を消費財として消費することを超えて、人間としての声優さんに強く興味を持つことであり、その段階は消費財ではなく人間として向き合っているので、「コンテンツ」ではない、という感覚かなと噛み砕きました。

ここにきて、バジリスクこなみさんの記事の方に話が流れてきます。「推し」との関係性は、適切な隔たりがあることでお互いが快適でいられるという話は、まさに消費財ではなく人間であることがキーになっています。

一人の人間のグッズを買いまくったり、その人を見るためだけにはるばる遠征に行ったり〜
〜一般的な人間関係では起こり得ないだろう。

というのはまさに、タレントが消費財としての側面を持つから起こりえる現象です。友達が書いたサインに何千円か払ったり、友人と15秒喋るのにその人のCDを買ったりなんてことをしないのは、「消費財として」の関係が存在しないからです。
タレントには一般的な人間関係では起こり得ない「消費財として」の関係が同時に存在するからこそ、「人間として」の関係には特別に、適切な距離感を要するわけです。


タレントは3層レイヤー?

https://twitter.com/muu_run/status/1521021592700030976?s=21&t=vKnRtjw8GpuCXGQO7O2hng

これはわかりやすかったです。
わたし自身の記事で「プライベートの切り売り」と表現したところが中間層になっていて、
➀「声優のAさん」(コンテンツ)
➁「声優のAさん」(個人)
➂「Aさん」(個人)
の3層レイヤーになっていると(わたしは)解しました。
レイヤーとは書いたものの、➁は➀➂と明確に分離しているわけではなく、「捌く人によって大トロか中トロか分かれる部分」です。

➀はコンテンツとしての声優、まさに「◯◯役のAさん」及び、その◯◯役として出演するイベント、番組や、インタビューへの回答です。
➂は言うまでもなく、プライベートの部分です。どこに住んでいるとか、我々が知り得ない領域の話です。
中間層の➁が、「プライベートの切り売り」の部分。ラジオのフリートークでする個人的な話などが該当する部分です。本質的には➂であるが、自身の裁量で➀へとコンテンツ化している情報がこの領域にあります。
「競馬好き」「ゲーム好き」みたいなものは仕事とは関係ないタレント本人の趣味や嗜好ですが、それらを前面に出して、キャラクターを纏わない個人として活動するのは➁の領域にあると考えられます。

ここで一旦、タカヒナさんの話のあたりで書いた「消費財ではなく人間としてのタレントに興味を持つ」ことを『推す』とおくと、「推し」かそうでないかの境目が➁に見えてきます。
「あの人もポケモンやってるんだ!」とか、「出身地が同じだ!」とかは考え方によっては➁に分類されます。
向き合い方が「好きなキャラクターの声優さん(➀)」から(それだけでなく)「同郷の人間(➁)」へと進展するのが(大なり小なり)『推す』なのではないかと思います。

つまるところ、➁の領域を「消費」するときに、「優しい隔たり」が求められるのではないかと、わたしは思いました。

もちろんこれは一つの考え方の話をしただけですので、「お前の言うことは間違っている、俺はこうだ」と言われても当たり前に「そうなんですね〜」としか返せませんが、「僕の場合は少し違ってこうだな〜と思います」というのがあったらコメントしてもらえると興味深く読ませて頂きます。

この文章はリアクションを受けての補足と思考整理なので、大したオチや締めはありません。適切な隔たりを保って幸せな推し活を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?