「推しとの優しい隔たり」について


この記事読んでて「はえ~~マジでそうだよな」と思って思ったことを一つ。

「優しい隔たり」とは

基本的に「推し」と我々との間では「優しい隔たり」があると思ってて。
それはどういう隔たりなのかは僕の好きな『推し、燃ゆ』に書かれている。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。

宇佐美りん『推し、燃ゆ』

我々と推しとの間では、大きな隔たりがある。
ステージと観客席と言う、大きな隔たりがあり、通常の対人関係とは違う
だから通常の対人関係では凡そおかしな行動であろう、一方的な愛情を向けても、その関係は成り立つ。
通常、一人の人間のグッズを買いまくったり、その人を見るためだけにはるばる遠征に行ったり、それは一般的な人間関係では起こり得ないだろう。
しかし、それで関係が成り立つのは、我々とアイドルの間での「隔たり」がきっちり存在するからである。
僕らはあくまでも、この客席から飛び出してステージ上に乗り込むことはしない。逆にアイドルも、近いような演出を見せてくれたり、握手したりしても、客席に飛び降りてくるようなことはない(いや、一部そういうアイドルもいるだろうけどそこはニュアンスで読み取ってくれ)。
その隔たりは、この関係性を維持するための「やさしさ」でもある。
僕もはっきりいって、ゼロか100かのコミュニケーションしか取れないから、全力の100で応援しまくってそれが許されるこの関係性は、本当に「やさしい」し、それは『隔たり』によってあくまで成り立っているのだと実感する。
しかし、イカれちまったオタクはどうにもこの「優しい隔たり」を可視化することができず、積極的にこの隔たりを勝手に破壊しようとする。

優しさを破壊する行為

前述に上げた「優しい隔たり」による関係性が成り立たん場合がある。それが、相手を酷くコンテンツ化した時や、ストーカー化した時である。
優しい隔たりとか、今言った「凡そおかしな行動」というのは、あくまでもその優しい隔たりの範囲内で行う行動であって。
向こうが距離を取ってくれる分、こちらも最低限の距離を取ることで成り立っている優しさである。
先に挙げたように、当然、突如客席からステージに上がっていって「俺のこと好きだよなぁ!?」なんて行為は論外である。
それがお前のMAX100のコミュニケーションであろうが、あくまでもこれは隔たりの範囲内でぶつけられる行為なので、その隔たりをブチ壊したら、当然その「やさしさ」は得られなくなる。
先に挙げたnoteの「人間のコンテンツ化」も同様である。
あくまでも、アイドルたちはプライベートを見せれる範囲でチラ見せして、いい塩梅の「近いように見えるが、遠い、ちょうどいい、やさしい隔たり」を与えてくれているだけである。それをわざわざ、コンテンツ化のnoteにあるような、余計なデータベース化や、見えないことを勝手に妄想し、かつそれを他人にぶつける行為は、その優しさを”破壊”する行為なのである、人間のコンテンツ化は。

現実よりももっと「隔たり」があるもの

しかして、まあぶっちゃけそういう発想になってしまう(=人間をコンテンツ化してしまう)オタクの考え方自体はあながち僕も否定はできない。
そういう発想に苦しむオタクの一人でもあるから。
(過去に、アイドルにリプライ送りすぎて同郷のオタクに指摘されたこともある)
しかし、やはり先にも言ったように、いくら自分の中でそういう発想があろうが、行動に移した時点でOUTとなる。
だから、そういう時は、自分が「アイドルというコンテンツに向いていない」ことは自覚したほうがよい。
アイドルはなんだかんだ現実に存在する。だから、自分の頭の中の妄想と、現実とがかみ合わないのであれば、もっと現実と隔たりが大きいコンテンツで満たしたほうが良い。
例えば創作。
創作は読む方でも書く方でもいい。
ただ、書く方であれば、公開範囲によっていくらでも現実との隔たりを持たせることができる。一人の机の上で、自分の妄想を全開に描き、それを誰にも公開しない場合、いくらでも自由に描けるし、逆にステージに上がって推しと踊る自分を描いても自由だ。
クソリプと叩かれる内容であっても、アナログの日記帳に書いて自分の中に秘めておく分には、誰にもなんら迷惑をかけることがなく、許される。どれだけ狂っても許される。
その分の「やさしさ」がそこに存在する。
そしてそれが慣れてくると、うまく「面白い」(=他者に公開しても問題ない)創作になってくる。
僕も高校時代はよく一人で日記を、創作を、誰にでも見せるでもなく書き続けた。
最初は公開することもしていたが、公開すると「つまらん」「ありえん」とかいう「ひどい現実」が見えて嫌になる。一人で書いて、一人で抱え込む分には、自分が世界最強芥川賞作家、映画化決定アニメ化決定大人気作品と思い込んで良いわけである。

「手紙」を書こう、みんな。

今、先にこんなことを書いた。

書く方であれば、公開範囲によっていくらでも現実との隔たりを持たせることができる。

逆に言えば、書いてすぐ相手に届くわけでない媒体であれば、いくらでも公開範囲を決めることができる。
だから、「手紙」なのである。
手紙はすぐには送れない。送り方は?住所は?字はきれいか?
などなど、SNSやメールと違ってすぐに送れない。
今の時代、思いついた妄想をすぐに吐き出させすぎる。
だからオタクの行き過ぎた妄想や迷惑行為がすぐ形となって相手に届いてしまう。しかし、手紙ならどうか。
まず書くのに時間がかかる。そして、書いてから、公開範囲を決定することができる。
いくらクソキモイ迷惑手紙を書いても、お前ひとりでそれを抱え込む分には誰にも何も言われない。
あるいは、名前を全く書き変えて、誰の話かわからないようにして創作としてpixivに上げる分にも、特に問題はないだろう。
しかし、そこの公開範囲をみんな誤るから、「優しい隔たり」を破壊することになる。
手紙は時間がかかる分、オタクを冷静にさせる。
自分の汚い字があらわになるぶん、ごまかしもきかない。
それだけ、自分の想いが、SNS上のテキストよりもより鮮明にあらわとなる。
それを見たうえで、それを本当に推しに送るのか、これは相手との隔たりの中のことなのか、そう考える間に、いずれは隔たりをしっかり理解することができるだろうし、逆に創作の道に走ることもあるかもしれない。

まあ、といいつつ、僕はあまり手紙を書いたことがない。
どっちかというと創作方面である。
創作で創作上のキャラクターに妄想をぶつける形で書いているので、特にキチガイが出てきても問題ないから。
しかしそれは僕がその出力方法を知っているからというだけだから、まずは手紙から始めて、うまくアイドルに手紙が出せるならヨシ、出せないなら創作に走るもよし、あるいはまた別の、「現実と隔たりがあるコンテンツ」に逃げるもよし。

ともかく、最終的に、『推しとの優しい隔たり』を意識することが、推しとの良好な関係を築くポイントだと思う。

気になったオタクは『推し、燃ゆ』をぜひ読んでほしい、推しとの関係性、誤らないでね。

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