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【短編小説】夜の公園で少年と猫に出会う「私」の話

『停滞する紫煙』


 子どもの頃、時計の針が止まっていれば、その時間は永遠だと思っていた。
 具体的には、よく遊び場にしていた公園の時計。
 何年もの間修理されなかったそれは、ずっと四時四十五分を指し示していた。私はそれを言い訳に、頻繁に門限を破って親から怒られていたのを、今でも強く覚えている。
 家に帰りたくなかったわけではない。
 宿題をしたくなかったわけでもない。
 当時は上手く言語化できなかったが、大人になった今なら、一言で説明がつく。
 小学生の私は、夕暮れどきが好きだったのだろう。
 一日の終わりに差し掛かった夕暮れどき。
 沈みゆく太陽は、最後に強烈な橙色を空に映し出す。
 昼と夜の狭間で、雲は橙の名残りを借りて壮大な模様を空に描く。
 それを眺めるのが好きで、だから私は、四時四十五分が永遠になれば良いのにと願いながら、あの公園に居続けたのだ。
 しかし行政も決して無能ではない。私が六年生になった頃には公園の時計に修理が入り、正確に時を紡ぐよう直されてしまっていた。それを期に、私の足が公園から遠ざかっていったのは言うまでもないだろう。
 それからの私といえば、中学高校と部活動に勤しみ、大学は県外へ進学した。本当は就職先もそのまま県外で決めたかったのだけれど、残念ながら希望先からは全てお祈りメールが送られてきて、苦い顔をしながら、保険で受けていた地元の会社に就職が決まった次第である。加えて、せっかく一人暮らしを満喫していたというのに、実家から近いのなら実家暮らしをして貯金をしたら良いと言われ、現在は実家暮らしの社会人だ。お金が貯まったらすぐさま一人暮らしを再開させようと思っていたけれど、なんだかんだとなあなあのまま、もう五年も経ってしまった。
 二十七歳、社会人六年目。
 すっかり大人になった私は今、件の公園のベンチに座っていた。
 ただし時刻は、夕暮れどきではなく、夜中である。
 人っ子一人いない公園で、私はここの主になったような気分で紫煙をくゆらせている。
 携帯灰皿には、既に五本の吸い殻が溜まっていた。確かこの公園には二十二時過ぎ頃に入ってきたから、一本吸うのにゆっくり五分かかり、少しのインターバルを挟んではまた吸ってを繰り返していたから、現在時刻は二十二時半は軽く回っているくらいだろうか。せっかく修理された時計は、残念ながら今座っているベンチからは見えず、正確な時刻はわからない。
 毎日のように残業が続き、身体はくたくただ。本当なら、一刻も早く布団に入って眠ってしまいたい。それでも私は公園に立ち寄り、暗闇に溶けていく煙をぼうっと眺める時間を作っている。
 これは、悪足掻きの現実逃避だ。
 昔とは違い、大人になった私は明確に「家に帰りたくない」と考えている。
 大学生の頃に一度一人暮らしを経験し、その後実家での生活に戻ったことのある人間なら一定数からは確実に共感してもらえると思うが、他人との共同生活は息が詰まるのだ。それがいくら血の繋がった家族であろうとも。むしろ、血の繋がりがあるからと遠慮がないぶん、シェアハウスよりも居心地は悪いのかもしれない。念の為に断っておくが、我が家は別段、家族仲が悪いわけではない。それでも、家族と言えど他人は他人で、居心地の悪いものは悪いのだ。
 少しでも家に居る時間を減らす為。
 子どもじみた悪足掻きで、しょうもない現実逃避でしかない。
 こんなところで管を巻いているくらいなら、重い腰を上げて一人暮らしを再開させる準備を始めれば良い。それができないのは、仕事がある所為。だけど仕事をしていないと生きていけない。仕事をしているから時間がない。とんだ悪循環である。
 こうしている間にも、時間は平等に積み上がっていく。
 そうしてできあがったのが、今の私だ。
 しかしどうだろう、その実、中身なんて中学生の頃と大差ないのかもしれない。駄々をこねるように公園に居座っていることが良い証拠だ。ただ、合法的に煙草が吸えて、夜間外出していても誰にも咎められないだけ。逆に言えば、だから大人なのだと言えなくもない。
 ……なんて、意味のない堂々巡りの思考に沈みかけていたとき。
 夜の静寂に針を刺すように、来訪者が現れた。
 それは、白猫だった。
 尻尾をぴんと立て、上機嫌な足取りで公園に入ってくる。
 数ヶ月ほど前から、この時間帯にこの公園を利用しているが、来訪者は猫を含め、初めてだった。如何せんここは田舎で、夜に好き好んでこんなところで時間を潰すような人間は、本来存在しないのである。
 白猫は私の視線に気がついたのか、ぴたりと歩みを止めて、迷いなくこちらを見た。
 私はほとんど反射的に、吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込んだ。煙草の煙は、猫にはよろしくないはずだ。いや、猫は無論、人間にとっても有害なのだけれど。
 だが、白猫はじっと私を見つめ、視線を逸らさない。嗅覚の鋭い猫のこと、あそこまで煙草の臭いが漂っているのかもしれない。不快であるなら、さっさとこの場を立ち去れば良いのに。もしや、不快な臭いの発生源たる私に攻撃をするか否かを見定めているのだろうか。
 それほどまでに鋭利な白猫の視線は、しかし呆気なく切られた。
 白猫のあとを追って、少年がやって来たのである。
 白猫はくるりと振り返ると、少年に向かってなにやら鳴き始めた。少年はそれを聞き零さないようにする為か、すっとしゃがみ込み、極力猫と視線を合わせ、その話を聞いている。いや、猫がどれだけ鳴こうが、その意図が人間に正確に伝わることはない。そのはずなのに、この一人と一匹は、なんの障害も問題もなく会話を成立させているような錯覚を覚えさせる。
 築二十七年の価値観が揺らぐ感覚に襲われるが、しかし状況とは相反して、あまり違和感はない。むしろ、それが当然のようにさえ思える。何故か。それは――
「――おにーさん」
 と。
 再び自身の思考に沈んでいた私に、かける声があった。
 声の主は、さきほど白猫と話していた少年だった。どうやら、私が考えごとをしているうちに、目前まで近づいて来ていたらしい。彼の足元には、白猫も居る。
「あのさ、この子がおにーさんに言いたいことがあるんだって。聞いてもらって良いですか?」
「え? うん、良いけど……。でも、僕に猫の言葉は――」
 猫の言葉はわからない。
 そう続けようとして、私は思い出した。
 猫と少年が会話をしていることに、違和感がなかった理由を。
「――もしかして、君、望月もちづきさんちの子?」
 そうして気づけば、私はそう問いかけていた。
 私の記憶が正しければ、彼は近所ではちょっとした有名人だ。確か、私が高校生の頃には、近所の野良猫に異常なほど好かれている男の子が居ると噂になっていたはずだ。事実かどうか定かではない……というか、確実に噂に尾ひれがついてしまった類のものだろうが、猫と話ができるとも聞いたことがある。
「そうだけど……ああ、俺のこと知ってるなら話は早いや」
 言いながら、少年はしゃがんで白猫を撫でる。猫は嬉しそうに目を細めた。
「この子がさ、『公園に来るのは、夜じゃなくて昼間にしてほしい。日向ぼっこの時間が伸びるから』って。あと、『煙草を吸わないって約束するなら、猫集会に招待してやっても良い』って言ってます」
 少年が、否、白猫の言っている意味が、わからなかった。
 いや、かろうじて後者はわかる。私のなにかが猫の琴線に触れ、猫集会に招待するに値したのかもしれない。だが前者については、全く見当もつかなかった。
 首を傾げるしかない私を見て察したらしい少年は、白猫に、
「ねえ、日向ぼっこの時間が伸びるってどういう意味?」
と、質問していた。
 白猫はにゃあにゃあと鳴き、少年はそれにうんうんと相槌を打つ。噂話も馬鹿にできないものだな、と心の中で感心していると、少年が再びこちらに向き直り、ええとね、と通訳を始める。
「おにーさんがこの公園に居る間、時間の流れがゆっくりになるんだって。でも夜が長引いても得がないから、来るなら昼間が良いんだって」
「なんだ、それ……?」
 時間がゆっくりになる?
 この猫は、少年は、一体なにを言っているんだ?
 頭の中には疑問符ばかりが浮かぶが、しかし、その片隅に、どこかそれで腑に落ちている自分が居ることも確かだった。

 子どもの頃、時計の針が止まっていれば、その時間は永遠だと思っていた。
 夕暮れどきの空を眺めるのが好きで、だから私は、四時四十五分が永遠になれば良いのにと願いながら、公園に居続けた。

 すっかり遠くなってしまった過去の記憶を手繰り寄せる。
 日没とは、本来そう長く楽しめるものではない。限定的であり、刹那的なものである。だからこそ子どもの頃には強く惹かれたわけだけれど――いや違う、論点はそこじゃない。
 注目すべきは、私が当時、四時四十五分を永遠だと思っていた点だ。
 これが私の体感時間だけの話ではなく、実際に日没時間が間延びしていたとしたら、相対性理論もびっくりの現象である。
「まさか……」
 言いながら、私は鞄からスマホを取り出した。
 腕時計もしているが、これは電波時計じゃないから正確ではない。今の私の所持品で、正確に現在時刻を表示できるものは、スマホしかなかった。
 果たして、スマホは二十二時二十分と画面に表示していた。
 なるほど確かに、これは白猫の言うことが正しい。
 理屈も因果も仕組みも一切理解できないが、しかし、この町であるが故に、私は納得する。
 猫と会話ができる少年が居るように。
 公園に居る間だけ時間の流れを遅くできる人間が居たって、なにも不思議なことはない。
 そういうこともあるものか、と。
 そう思うだけだった。
 私の様子から状況を理解したと察したのか、白猫は満足気に、にゃあ、とひと鳴きした。
「『煙草、辞めるか?』って」
 少年が、すかさず白猫の言葉を通訳してくれた。
「辞めたら猫集会に招待してくれるんだっけ? そうだね、うん、じゃあ辞めるよ」
 白猫と少年を交互に見ながら、私は言った。
 元々、煙草に執着はしていない。時間を潰す理由にしていただけだ。
「君たちは、これから猫集会に行くの?」
 ベンチから立ち上がり、軽く背伸びをしながら、私は尋ねた。
 しかし少年は、首を横に振る。
「この子がおにーさんと話がしたいって言うから、ついてきただけ。今日は集会はないみたいだから、俺ももう帰りますよ」
 宿題もやらなきゃいけないしね、と、少年はなんとも学生らしい言葉を付け足した。
「それなら家まで送っていくよ。こんな時間に、未成年の独り歩きは看過できないからね」
 私の記憶が確かであれば、少年は現在、中学生であるはずだ。
「ええー、いいよ別に」
 少年は怪訝そうな表情を浮かべたが、ここは大人として退くわけにはいかない。
「僕の家、君の家の先にあるんだよ。どうせ帰り道は一緒なんだしさ」
 それでも眉間にしわを寄せる少年に、白猫がにゃあにゃあと鳴き始めた。
 説得の後押しをしてくれているのか。
 早く私から逃げろと警告しているのか。
 果たして。
「おにーさんの名前、教えてくださいよ。そしたら大人しく送られてあげる」
 少年は小さく息を吐いてから、そう言った。
 どうやら白猫は、私と少年の仲を取り持ってくれたようである。
「僕の名前?」
「うん。だって、おにーさんは俺のこと知ってるみたいだけど、俺はおにーさんのこと知らないからさ。そういうの、大事じゃないですか?」
 少年の指摘はもっともである。
 私は小さく咳払いをしたあと、右手を差し出し、言う。
「僕は辻瀬つじせ。改めて、よろしくね――望月くん」
「うん、よろしくお願いします」
 少年は目を細めて微笑み、私の右手を握り返した。
 なんにも起きないし、なんでも起きるこの町で、今日この日、私はひと回りほど年下の友達ができたのだった。どうやらこの友達は夜な夜な外を出歩いているようだし、もうしばらくは実家暮らしが続きそうである。しかし、今ならそれも悪くないと、素直に思える。
 思えば、就職先も住む家も、もっと本気で抵抗しようと思えばできたはずだ。言い訳を盾に現状維持を続けてきたのは、他でもない私である。全く、小学生の頃からなにも変わっていない。
 だからきっと、私は私が思っている以上にこの町や家族を気に入っているのだろう。
 そう思った。



※猫と会話ができる少年は、こちらの作品にも登場しています。
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