25本目「オッペンハイマー」【ネタバレあり】



TOHOシネマズ日本橋にて

※映画としての評だけ見たい人は、「感想など(ポジティブ)」だけ読んでくださいな。

映画についての基本情報

公開日:2024/3/29
監督:クリストファー・ノーラン(アメリカ)

第2次世界大戦中、才能にあふれた物理学者のロバート・オッペンハイマーは、核開発を急ぐ米政府のマンハッタン計画において、原爆開発プロジェクトの委員長に任命される。しかし、実験で原爆の威力を目の当たりにし、さらにはそれが実戦で投下され、恐るべき大量破壊兵器を生み出したことに衝撃を受けたオッペンハイマーは、戦後、さらなる威力をもった水素爆弾の開発に反対するようになるが……。

オッペンハイマー : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

まえがき

この映画は、観るべきかどうか、かなり長いこと悩んでいた。
それこそ本国での上映前の情報で「あの」ノーランが撮る、と知った時から、公開週の火曜日夜23:50くらいまで、ずっと悩んでいた。

アメリカで、「原爆の父」を題材にした映画が作られる。
いまだ、あの人類史に残る戦争犯罪をオフィシャルに謝罪したことがないあの国で、いったいどんな映画が撮られるのか。

あの忌々しい「バーベンハイマー」もそうだが、やはり「核」の重さはアメリカ人にはわからないのだろうか。アカデミー賞で7部門?分かっているのか、その重さが。

そんな映画を観て、金を落としてよいのか。

ことあるごとに名前を出し、「観に行かないと思う」と宣言していたこの映画を、私が観に行ったのは偏に「観ないで文句を言うべきではない」という筋論のみであった。

感想など(ポジティブ)

映画としては、極めて良い出来であった。

伝記映画のセオリーを無視した時系列のシャッフル、非現実的にも思われるエピソード(青酸カリ林檎等)を挿入してまで「観客を退屈にさせない」という一点において、完璧な出来栄えだと言ってよい。

最初の1/4。オッペンハイマーの青年期からの成長、出会い、その思想的背景や精神的不安定さ、危うさを説明的になりすぎない描写とともに理解することができる。

次の2/4。オッペンハイマーがマンハッタン計画を軍大佐に提案。
そこから始まる、極秘かつ壮大な計画。敵国に先駆けて極秘の最終兵器を作るため、街を一つ作ろうという大計画。その中で動く無数の個性的で有能な人材。オッペンハイマーが発揮するカリスマ。それでも起きる軋轢。オッペンハイマーに迫る「赤狩り」の影。それでも進んでいく計画。
まるで、空想科学映画の様だ。

合間合間に挟まれる、二つの謎の「裁判ではない」会議。
老年期のオッペンハイマーが登場する密室と、謎の男が主役となるモノクロの公開された会議。人間関係も完全に明かされぬまま、観客にミステリーを提供して飽きさせない。

美麗な映像と演技、刺激的な音響で観客を最後まで引っ張っていくこの作品は、よい意味で「伝記映画」らしくない。

感想など(ネガティブ)

さて。この映画は良く出来ていた。
一本の映画としては、最高に近い出来栄えだといってよいだろう。しかし、それでも、それでもなお、私の感じた陰を相殺するには足りなかった。

それが始まったのはおそらく、上映開始から1時間半近くが過ぎたころであろうか。

「ナチスは降伏したのに、いったい誰にこの原爆を使うんだ?」
「その意味はあるのか?」

これに明確に答えられる者は当時いたのだろうか?
オッペンハイマー自身とて、この映画でそうであったように明確な答えは返せなかっただろう。

原爆を落とす候補地選定の会議。
「京都は外しておこう。文化的価値がある。新婚旅行で行ったが、素晴らしい土地だった」と宣うアメリカ軍人。

身の内に憎悪を感じた。わが故郷、京都は確かに文化財の多い都市だ。
だが、その他日本の、いや人の住んでいる如何なる都市であっても、「焼かれてよい程度の価値しかない場所」など存在しない。

上映開始から約2時間。その時は来た。
完成した原爆の実験。あれだけの威力、光、遅れてやってくる音、感じて、何も思わなかったのだろうか。それを、人の上に落とすことに。
実験が成功した喜びが勝ったのか?敵国人を焼き尽くす力を持ったことがうれしいのか?スクリーン内で湧き上がる「オッピー」コールに、私はやはり強い憎悪、怒りを感じた。涙すら出てきたほどだ。

この時、私の前を男が通って劇場を出ていった。
カバンを持っていたし、おそらく帰ったのだろう。その気持ちはわかる。

そして、そのすぐ後。
広島に原爆を落としたという報告は、そう、報告だけがオッペンハイマーのもとに、ラジオ放送によって齎された。アナウンサーの声は、喜びに満ちていた。憎かった。

その後、オッペンハイマーが立つことになった檀上。
無数の「愛国者」が沸き上がり、抱擁しあう晴れの場だ。
憎かった。
そこでオッペンハイマーは、焼かれる人々のビジョンを観る。
踏み出す足元に、黒焦げの死体を感じる。遅いのだ。
しかも、そんな場でも彼は言う。「ナチスに落としてやりたかった」と。
嘘でも口にできるか?

断わっておくが、これらは映画としての脚色に満ちたフィクションである。
しかし、それでも私は憎かった。スクリーンに映る、未曾有の大虐殺に沸き立つ人々、それを生み出した科学者の一人に至るまで全員が憎かった。
それはこの映画の力なのだろうが。真に迫ったと感じさせる力。


私が観た「オッペンハイマー」はここから色を失った。
この後1時間、物語はオッペンハイマー自身における大事件、「赤狩り」へとシフトしていく。この映画の主題として用意された「大事件」に。

心底、どうでも良かった。
オッペンハイマーやアメリカの大罪、無辜の民間人の大虐殺についてはこれ以降、ほとんど触れられない。やれアカだ、ソ連のスパイだ、そんな私にとって些末な政治劇に収束していく。

「原爆」「核」という大虐殺、そしてその後の世界を決定的にゆがめた大事件をに比べたら、何の価値がある、そんなイデオロギーの違いに?
だが、この映画の描写の優先順位は「赤狩り」>「原爆」なのだ。

オッペンハイマーはことあるごとに罪悪感を表明し、そう感じているような描写が続く。先に挙げた華やかな壇上での幻視もそうだ。
しかし、「赤狩り」>「原爆」であるこの映画の中において、それをそのまま受け取ることは私にはできなかった。

オッペンハイマーの人格を称揚し、その政治的生命を奪った「赤狩り」を非難する。そのための道具として、劇中の彼は原爆への罪悪感を描写されていたように見える。パフォーマンスだ。
「自身の発明が生み出した災禍と戦う男」VS「その男をイデオロギーや個人的恨みで追放しようとする男」という構図を作りたいがための、パフォーマンスだ。

監督のノーランは、原爆の炎に焼かれる幻視に自身の娘を使ったという。
だから何だというのだ。その炎は合成だ。娘も、その姿に特殊効果を加えたノーランも、被爆者の苦しみの万分の一も味わったわけではない。
罪悪感を感じてるというなら、「原爆」をこうして扱うことに少しでも悪を感じるなら、何故撮った。

繰り返すが、この映画はフィクションである。
しかし、そこに映し出される映像や描かれる人間像、それらが単純に「フィクション」として受容することを許さない。
その上で浮かび上がる、作劇上の優先順位。それが、私の憎悪を否応なしに搔き立てるのである。

本作は映画としては非常に素晴らしい。
しかし、願わくば、本当にただの空想科学映画であって欲しかった。

ペーパーお勧め度

判定不能。
映画としての素晴らしさと、私が勧めるかどうかは必ずしも一致しない。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?