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メキシコで出会った革命家おばさんの熱い生き方に触れて

K子さんに出会ったのは、メキシコシティの宿だった。

アメリカから到着した日、案内されたドミトリーには、チェ・ゲバラがでかでかとプリントされた赤いTシャツを着た、60歳くらいの日本人女性がいた。

「こんにちは」と挨拶する私に、「はいはい、どうも」とぶっきらぼうに返事してきたその人が、K子さんだった。4つ並んだベッドの一番奥のスペースは、彼女の荷物で占拠されていて、その滞在が短くないことを物語っていた。

私が荷物を下ろすとすぐに、同室者としてのルールを説明された。宿が定めたものではなく、いわば「K子ルール」。宿の一室だけに通用するローカルルールだ。

・21時半には消灯。以降に部屋にでは静かにすること
・YouTubeなどは絶対にイヤホンをつけて観ること
・理由は健康のため

「うるさいのが嫌い」と言う彼女に、不思議と威圧感は感じなかった。主張は確かに強めだったけれど、はっきりさっぱりとした口調が痛快だったからかもしれない。

K子さんは無口な人で、あまり他の宿泊客と積極的な交流はしなかった。側から見れば少し気難しく見える彼女は、20〜30代が中心のバックパッカーたちと話が合わなかったのかもしれない。

でも、そんなK子さんが私は大好きだった。

いつも赤い服を着て、タバコを吸いながら、何かしらを批判してる日本人のおばさんに、「私が理想とする姿」を感じていたからだ。

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メキシコシティの魅力にからめとられ、私の滞在が延びるにつれて、K子さんはポツポツと自分のことを話してくれるようになった。

メキシコシティにある大学の聴講生で
女性の人権問題について勉強してること
メキシコに来る前は、
沖縄で基地反対の座り込みや、
東北での反原発運動に参加してきたこと...

「よく見て、よく考えなきゃ」

K子さんは口癖のようにそう言った。私に向けられた言葉ではあるけれど、いつも自分自身に言い聞かせているような響きもあった。

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ある日、二人で露天マーケットに出かけた。食材や日用雑貨、洋服やペットまでなんでも売られていて、現地人でにぎわっていた。

私はちょうどシャンプーを切らしていたから、いつも使っている「パンテーン」を見つけて買おうとした。

どの国、どの町でも大体同じクオリティのものが手に入るから、ただそのシャンプーを選んでいただけなのだが、K子さんは猛抗議してきた。

アメリカや「資本主義による搾取」が大嫌いな彼女は、グローバル企業の製品は、ガム一つでも絶対に買わない主義だったからだ。

「想像力をもて」とK子さんは言った。

「自分の行動が何を意味するのかよく考えなきゃ」
「結果ではなく、影響の問題なんだよ」
「世界はつながってるんだから」

K子さんの言葉にはなんだか妙な説得力があったから、私はパンテーンを棚に戻し、メキシコ製のシャンプーを買って帰った。

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彼女のことを、私は勝手に革命家と呼んでいた。

赤い服ばかり着ていたからだけではない。例え自分一人でも主義や信念に従って行動を続ける姿が、熱く眩しく感じられたからだ。

すかしてる方がかっこいい。そんな風潮の中で私は学生時代を過ごした。

議論をふっかける奴は「めんどくさい」とレッテルを貼られたし、政治や宗教やそのほか様々な「問題」は「よくわからない」で片付けた方が「空気が読める」だった。

本当はいろいろ感じていたし、世の中に疑問なことがたくさんあったけれど、「なに熱くなってるの...笑」と鼻で笑われるのが嫌で、何も考えていないフリをした。

でも内心、戦ってみたい、もっと熱く生きたいと思っていた。

そんな20代の私にとって、世の中の「矛盾」や「理不尽」に対して、周囲が火傷しそうなほどの熱量熱で歯向かう還暦過ぎのおばさんは、もうセンセーショナルだった。

「写真はNG、メールも絶対に返さない。理由はインターネットが嫌いだから」

それがK子さんの主義だった。だから、メキシコシティを離れてしまうと、彼女と連絡を取る手段はなくなってしまった。

本当に一枚も写真を撮らせてくれなかったから、K子さんは思い出の中の人として、私の胸に大切にしまわれている。でも、私は彼女を絶対に忘れることはないだろう。彼女の面影と生き様は私のとても深いところに刻まれているからだ。

別れ際、また会おうなんてK子さんは絶対に言わなかった。

「あたしゃ嘘はつかないよ」

「主義ですね」と笑う私に、「そうよ」とK子さんがぶっきらぼうに言った。口角が少しだけ上がっているように見えた。

じゃあねと握った手の、力強い感覚を今も鮮明に覚えている。


イラスト:RIKAKO KAI


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