「日常」の中に「旅」を見出すことは難しいのだろうか

最近、特に昨年の晩秋あたりから旅への欲求がとても高まっています。それは、現状に満足していないことへのモヤモヤだったり、旅人仲間の活躍に触れての焦りだったり、昔から持っている「生きづらさ」からくる逃亡癖だったり、いろんな理由があるのかなって考えています。

自分がしてきた旅を発信したい。いま住んでいる日本の地方の魅力を発信したい。そんな「したいこと」をおざなりにして、遠いところばかり見ている日々。このまま何もできずに終わるのかなって想像するととても怖くなって、とりあえずちょっとでも前に進んでいる感触が欲しいから、言葉を吐き出すことだけは止めないように、それだけは続けられるようにこの1年はやっていきたい、そんな風に思います。

旅にでたい。今もしっかり生きたい。

日常の中に「旅」をつくることはできないんだろうか。どこか別の土地に移動することが旅の第一条件だとしたら「旅をする」ことはできないけれど、わたしが「旅をすること」に求めるモノだったら、もしかしたら日常にも落ちているのかもしれない。そんな思いにいたってからこの記事を書き始めています。


旅の目的

同僚でありご近所さんであり移住仲間の友達は、写真を生業としています。彼女のライフワークは自然に触れることで、週末になるとカメラを片手に登山やハイキングに勤しんでいます。彼女の目線の先には常に厳しく繊細でそしてダイナミックな自然があって、それを追い求めることが彼女の幸せであり、自然こそ彼女の求めているモノなのでしょう。

旅をする人の中にも、旅を通じて自然の美しさに触れることが一番の目的だという人がいます。そんな旅人の求めるモノは旅の中の自然であり、それに触れるために旅をするのでしょう。同じように、旅を通じて食の多様さに触れたい人もいるし、言語を習得したい人もいるし、旅に求めるものは旅人の分だけあると思います。

わたしが旅に求めるモノってなんだろう。

その答えは自分の中にはすでにあって、「人」に対する尽きない興味がわたしを旅に駆り立てるのだと思っています。人が何を感じ、思い、その結果として何をして生きているのか。そんな人の見えない内側の部分を含めた営みを、わたしは旅を通じて常にみていたかった。知りたかった。感じ、共有したかった。人の営みに付属する様々なことをみたかった。そんな風にこれまでの旅や人生を振り返って思います。

オーストラリアの農場で、メキシコの安宿で、スペインの山道で、インドの寺院で、常にわたしは人をみていました。それが楽しかったから。

自分以外の人間は一番身近な宇宙だと感じています。謎多き果てない宇宙。自分もそんな宇宙の一つであるのは間違いないけれど、わたしは自分の中でどんなシステムが作用して目に見える動きにつながっているのか、自身の地底内部に潜って探索することができるけど、他の惑星はその内部まで微細に知り得ない。そのシステム、つまり他人の思考回路はわたしにとってはトレジャーハンティングするべき未知のモノであり、観測できる事象によってそれが起こるルールを推測、類推することがとてつもなく楽しい好奇心の対象ブツなのです。

その土地で人々がどんな風に生きているのか、それはなぜなのか。

わたしが旅に出るのは、そんな素朴な好奇心と、それをちょっとでも紐解けた時の「なるほど!」がとてつもなく心地いいからなのだと思います。


日常に旅を盛り込むこと

旅に求めるモノが、人とその営みや周辺で起こることに触れること、その背景を知ることなのであるなら、それをいまのわたしの日常に盛り込むことってもしかしたらそんなに難しいことじゃないのかもしれない。

人口6600人のまちに住みながら、週5フルタイムで雇われて働くわたしにとって、いま一番の楽しみは、やっぱりこの地に生きる人たちの営みを知り、その営みが紡ぎ出される背景を知ることだったりする。それって結局、わたしが旅に求めた面白さと、とどのつまりは同じなんだって改めてこうやって言葉にしてみると気がつきます。

わたしが旅をする時は、なるべく長く同じ土地にいて、馴染みの店をつくり、顔見知りを増やし、その土地に住む人々とも通りすがりの旅人ともたくさんの話をして、自分の中でその土地についての輪郭をなぞっていく作業がある程度完成してから、次の土地へ移っていく、そんなふうに旅をしてきました。もちろん数日で移動したまちや乗り換えで立ち寄っただけのまちもあったり、訪れた場所全てを長時間かけて味わえたわけではもちろんないけれど、できる限りそんな心持で旅をしてきたし、これからもしていきたいと思っています。

いまは住所もあって、住む家も仕事もあって、場所を移ることはできないし、新しく出会う人の数や種類は旅をしている時のそれと比べると極端に減っているかもしれない。でも、一人の人や一つのコミュニティとじっくり向き合い、人と人とがどんな風につながりあって、地域をつくり、まちができているのかを、自分もその一員となってじっくり知っていくことができます。

人ってとっても多面的で、多様で、変幻自在で、流動的だなと思うから、「この人はこうだから、こうしたんだ」「これはこんな関係があるから、こうだったんだ」みたいなことが一つ知れたとしても、また時間が経過して、その人やその地域のコミュニティの他の面が見えてくるとまた新しい「なぜ?」が生まれて、もっともっと知りたくなる。一つのところに住んで、人と人との距離が近い田舎だから特に、旅の時とはまた違った味わい方で、人と関わることを楽しむことができているじゃない、できるはずじゃないって思います。

日々の人との関わりを、旅をしている時のそれと同じように楽しんじゃえばいいのか。

人と人の営みに触れ、知ること、それ自体を純粋に楽しんでしまう。旅だから、旅してないからじゃなくて、外枠に囚われずに、わたしが純粋に楽しいと感じて求めているモノを素直に受け入れて求めてしまえば、きっと日常の景色ももっともっと輝いたものになるのかもしれない。そんな期待のような予感がこれを書いていてふつふつと湧いてきていることがとても嬉しく思います。


常に“目の前”を楽しむことで世界は変わる

これは自分へ言い聞かせる意味合いもあるけれど、目の前のことを常に楽しめば具体的に旅をしていようが、他のことしていようが、結局は同じことなのかなと思います。日常でも旅の最中のように、辛いことや予期せぬ不運や、人間関係の複雑なんかに頭を悩ませて心HPを消費することもあります。でもずっとチョコレートを食べ続けてたら甘さを甘いって感じる感覚が麻痺しちゃうし、辛いものやしょっぱいモノがあるからこそ、対局の甘さをしっかり感じられるはず。

不幸せがなかったら幸せもないし、楽しくないことがなかったら楽しいこともない。

人生山あり谷ありだから辛いことも辛抱しろよ、とかいう根性論をたれたいわけではなくて、これは感度の問題。きちんと感じるべきものを感じて生きていきたいから、「常に」を意識していきたい。そうすれば、景色はもっと輝くし、それがきっと深く味わうことになるって思います。

何をするかじゃなくて、なぜするか。いま、何をするか。それはなぜか。それをどうみるか、感じるか。

他人もわたしも心は宇宙。そこには広く果てしない銀河が広がっているから、内にも外にも好奇心の旅を続けていける。きっと、そうしていける。そんな風にして本質的な「旅」を日常の中に取り入れることは、そんなに難しいことじゃない、はず。少なくともいまはそう思うから、明日からの毎日をそんなふうに過ごしていきたいなと思います。

また次、具体的な旅に出るまで。
目の前の宇宙をじっくりじっくり旅していきたいと思います。



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