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不登校で家族が壊れる

 近年、不登校の問題が急増しています。その原因は多岐にわたり、一概にこれと決めつけることは難しいです。そもそも、集団生活になじめない人も少なくありません。多人数を一つの教室に集めて教育するという従来の方法が、現代の社会においては無理が生じているのかもしれません。学校の存在は社会秩序を保つうえで必要とされていますが、個人にとっては必ずしも必要なものではなくなってきているのではないでしょうか。

1 娘の退学

 彼女は入学後2ヶ月ほどで「省かれる」という状態になったそうです。何がどうしてこうなったのかはわかりませんが、嫌われるような言動や行動があったのかもしれません。

 問い詰める私に「私の性格はお父さんを見て育った結果だ。お父さんは周りを見下している。そんなことないと思ってるかもしれないけどそうなの。だから私にもそんなところがあるの」と言います。私が娘の言動に腹を立てていると、「授業でもそうなの。そんな授業をしているの。少しは話を聞いてよ」と追い打ちをかけられました。

 娘は私を警戒していました。「Sは中学校から仲が良くて信用してた。だけど、悪口を言っていた。直接聞いたわけじゃないから私がそう思ってしまっただけかもしれないけど」「よその学校に行けば良かった。それでもやっぱりだめだったかもしれないけど」。私と会話をするときにスキをつかれないように予防線を張るのです。娘の思いを受け止めず、言葉尻をとらえて批判するようなことを繰り返し、びくびくしながら会話するような姿勢を作ってしまったのかもしれません。

 思い返せば、学校の成績がとても良くて、ほめるべきことさえ私は怒っていました。「お前は何のために勉強しているのか、一番をとって周りに自慢するためか」と叱ったことがありました。『お父さんは私が見栄のために勉強して、それを自慢して嫌われたような言い方をするけど違う。お兄ちゃんは自分のほうがずっとすごいのに「一番なんてお兄ちゃんも取ったことがない。すごい」ってほめてくれてうれしかった。だから、ずっと一番をとりたいって思ったの』と言って泣きました。

 この年の3月11日、東日本大震災の悲劇を目の当たりにして、私は自分でも信じられないほど落ち込んでいました。そのうえ、4月から経験したことがない定時制高校の勤務になり、夜の暗さが気分も暗くしました。追い打ちをかけるように十数年可愛がっていた飼い猫が死んでしまいました。長年生活をともにしてきた動物の死は予想外に大きなダメージでした。 そんなときに、娘から辛い学校生活の話を聞かされ、心が崩れ落ちそうでした。
 だから、新学期になって娘が学校に行かないと言ったとき、私はあっさり退学させました。

 これまでに出会った不登校生徒の顔が次々に浮かびました。担任していた生徒が全く同じ状態に陥ったことがあり、夜は携帯電話やパソコンでゲーム、明け方に寝るという日々を送った結果、自律神経が失調し、朝に恐怖感を抱くようになりました。彼は町を歩いていて十代の男女の集団を見かけたり、声を聞いたりしただけで恐怖を感じ足がすくみました。最後は登校するように促すと家で暴れるようになり、両親も手に負えない状態になりました。
 娘もほぼ同じ経過をたどりました。家族にしてみると腹が立つ行動も多く、学校へ行かなくてもいいというと態度が豹変し、朝から携帯、DVD、パソコン三昧で、家事を手伝うわけでもなく横柄な態度でタメ口を聞きました。「学校にも行けないでき損ないのくせにでかい口をきくな」と怒ったら、壁を蹴って穴をあけました。

2 妻の怒り・嘆き

 私自身は自分が何年も道草しながら生きてきたので、1年くらいの遅れは「まあいいか」で済みましたが、妻は違いました。

 自分の子どもは脱落したと言い、悲しみ、憤り、嘆きました。「子供は私のお腹から生まれたの、自分の分身なの。体の一部みたいなもの。子供のころはずっと付きっ切りで育ててきたし、私の育て方でこの結果になったと思うと辛い。制服を着て通学している高校生を見るとうらやましい。進学校に進んでほしいと思っていたころは周りの学校の生徒なんて目にも入らなかったのに。私の娘は高校に通うというそのことさえできない。世間の人は立派に子育てしてると思ってしまう」とまで言いました。

 昼間は仕事に出ていた私とはかなり違うのかもしれないと思いつつ、未だに妻のこのときの気持ちは理解できていません。

 不登校はどんなきっかけで始まろうが結局は家庭内の問題になります。そして、本人と家族に回復できないほど大きなダメージを与えます。私は荒れる学校に転勤して毎日凹みながら帰宅すると、そこにも冷たい空気があって気が狂いそうでした。

3 自分もおかしい

 不登校の生徒は「兄弟姉妹がやはり不登校である」場合が多いです。教員としての立場でみると「不登校生徒の家は不登校を引き起こす要素を持った家庭なんだろう」と思っていましたが、自分の娘が不登校になって、家族のもろさを痛感しました。 
 娘を退学させたことで妻は私に不信感を抱き、娘は妻の冷たい態度や抑揚のない話し方に心を傷めていました。 私が帰宅するのは夜の11時、妻はそれを確認すると言葉もなく寝室に入っていく日が続きました。
 私も妻や娘の様子に鬱々とした気持ちになることは避けられず、酒を飲まずには居られませんでした。こんな状況でもネットで好きなグループのファンサイトを見ては楽しげにしていたり、テレビ番組を録画して見ていたりする娘にイライラもつのり「早くどこかへ行ってしまえ」と思ったものです。自分自身がまともじゃないと思ったこともたびたびでした。
 家の中で疲れ果て「仕事に行きたくない」という思いが日に日に強くなり、まっすぐ学校に行く気になれず、毎日、街の中を歩いて、時間をつぶすことが多くなりました。私の行動は不登校になった生徒のそれとまったく同じでした。

4 活路を求めて

 それでも、娘が落ち着いて、私も少し落ち着いてようやく冷静に話ができるようになった頃、行き場を求めて、不登校の生徒を対象にした学校を訪問しました。気晴らしに娘と一泊二日で札幌を旅するような気持ちで出かけましたが、この訪問は収穫の多いものでした。

 IK高校さんではお忙しい中、教頭先生が対応してくださり「3年以上の在学期間が必要なので、前の学校を退学してしまったらもう、同期の生徒と同時に高校を卒業することはできない。1年よく考えて、来年、来たかったら来なさい。選択枝はたくさんあります。予備校に通って、高卒認定試験を受けるという手もあるし、自分がしっかりしていれば公立の有朋高校も授業料がただだから良い選択だと思う。お父さんの方の問題かも知れないけどうちは安くないよ。どっちにしても今焦って決める必要はない。この一年間をどう過ごすかはあなたにとって重要なことだ。しっかり勉強してください」と
とても良心的なアドバイスをいただき、私にとっても大きな収穫でした。
 娘は帰りの車の中で「早く家を離れて、どこかの学校へ行きたいと思っていたけど、もう少し家にいて勉強するかな」と揺れる気持ちを口に出さずにいられなかったようです。
 
 この訪問ではもう一つ大きな収穫がありました。それは車の方が家の中にいるより話しやすいということです。これを機にドライブに出る機会が多くなりました。

5 雪解け

 札幌での学校訪問以来、車の中で話すことが多くなり、ゆっくりではありますが凍り付いていた家の空気が溶けてきました。
 退学してから3ヶ月もすると、眉間にしわを寄せて、いじめられた子犬のような目で私をにらんでいた表情も和らぎ、掃除をしたり茶碗を洗ったり家の手伝いも楽しみながらやるようになりました。私自身も慣れてしまうとこんなもんかと思うようになり、妻もあきらめたようで、ときおり愚痴をこぼす程度になりました。娘は一応家事手伝いとしての地位を築き上げて、私たちも家で娘が帰りを待っていることに何となくホッとする気持ちを抱くようになったから不思議です。

 家族がこんな状態になると不登校なんてもうどうでもよくなりました。学校へ行かないから生きていけないわけでもないし。

 家の中にいると気が滅入るので、休日は車で出かけるようにしました。これが意外に楽しく、みんな同じ方向を向いて顔をあわせないから喧嘩になりにくいし、車窓からとびこんでくる景色が何気ない会話を提供してくれました。放牧されてる牛や馬、散歩で歩いている犬、野原のきつねたち、野良猫たちを見ていると、悩んでいるのがばかばかしくなりました。妻は気に病むのをやめようと思ったようで、娘のことにあまり口を出さなくなりました。  
 まだまだ嵐は続いていましたが、笑い声がもどってきた毎日をとてもありがたく思ったものです。

6 そして1年後

 娘は1年の浪人生活の後、札幌の昼間定時制の学校へ通い始めました。
 90分授業、少人数の選択授業など未体験のことだらけです。最も大きな変化は一人暮らしを始めたことでした。札幌の北の外れにあり、都心に出るのもままならないところですが、一生懸命生活していました。近くに大きなホームセンターがあり、そこのペットショップがお気に入りの場所、癒しの場所になっていました。
 学校は「校舎が明るくてきれいなこと」「授業が静かなこと」「HRにいろいろな年齢の生徒がいること」が気に入ってました。結婚している生徒がいたり、茶髪の生徒が居たり、一生懸命勉強する生徒もいて「自分が異質」という気持ちを持たなくて済むようでした。 
 娘も変なところが生真面目で「学校や勉強は辛くてあたりまえ」「学校はこうでなくてはいけない」という固定観念をもっており、過剰適応する傾向がありました。親が要求する以上に自分自身に「こうあらねばならない」と要求し、その要求は周囲の生徒にも向けられたため疎ましく思われることもあったのだろうと思います。
 「茶髪・派手な化粧」の生徒に強い嫌悪感を持っていましたが、今は隣に座っている「金髪・口ピアス」の生徒と良く話をするようで、彼女が学級委員に立候補して「私はいじめを許さない」と言ったと嬉しそうに話してくれました。GWの帰省に、少ない小遣いをやりくりして「母の日」のプレゼントを持ってきました。優しくなりました。

7  娘の成長

 単位制の学校は学年がなく、ほとんどが選択制の授業で色々な人たちと混じり合います。その中で友人に恵まれ、お互いに切磋琢磨する日々が続きました。「窓際に座っているとさぼって出ていく人たちが見えるの、でも一生懸命取り組む人たちもいてその人たちがいるからモチベーションを維持できる」といいました。親しくしてもらっている友人たちも、最初入学した高校で娘と同じような境遇に陥って同じように悩んで、同じように今の高校を選び、同じように一生懸命勉強しているようでした。

 敵か味方かで色分けして友人を見ていた頃とくらべると本当に良かったと思いました。いろいろな人たちがいるから、自分も異質さを感じないですむし、色々な人たちがいるから、気の合う友達を見つけることができたと思っているようです。「前の学校は勉強していると馬鹿にされるような、勉強しないことがカッコいいみたいなところがあって、一生懸命がんばってると冷たい目で見られるようなところがあったけど、今は『頑張ろう』といえる。何よりも授業が静かなの」とうれしそうでした。その後も人間関係のトラブルはあったようですが、無事乗り切りあこがれの大学に入学しました。

8  あとがき

 私の娘は高校2年の4月に退学しました。で、1年間家でごろごろしてましたが、昼間定時制の高校へ行って、現在は大学を卒業、会社員になっています。親としてはよその子が学校へ行ってる時間に家でごろごろしている我が子を見ると不安になるし、体裁が悪いし「なんでうちの子は」という気持ちになってがっくり落ち込みます。私もそうでしたが、最初だけでした。妻は引きずりましたね。夏くらいまで娘とろくに会話をしなかったような記憶があります。

 男親は娘に優しいと言われますから、そのためかも知れませんが、5月くらいになると娘が家に居るのは当たり前の風景になりました。ときどきいないことがあると寂しく感じたものです。娘も何もしないで居るのが悪いという気持ちがあって、家事を手伝っていましたからひきこもりではなく「家事手伝い」という地位を確立していました。猫たちもなんとなく寄っていく相手を確保して嬉しそうな顔をしてました。いずれ巣立っていく子どもですから、こうやってずっと家に居る時間があっても良いなあと思ったものです。

 でも、彼女は組織に所属してないと面倒くさいということを学びました。
親戚や知り合いが集まる席、法事や結婚式のような場所へ出かけると必ず
「どこの学校?」と聞かれるから「~高校にいたのですが退学しました。来年は~しようと思っています」と説明しなければならない。ボウリング場や映画館では身分証明書がないから割引が効かない(あたりまえですが)。カラオケも割引がないから、友人と一緒に出かけると迷惑をかけたり、差別されているような気持ちを抱く。 
 何でもないようですが、繰り返しこういうことがあると結構めげるようです。「やっぱり学校へ行きたい。お弁当を食べながらおしゃべりがしたい」と切々と訴えてきました。高卒認定でもなく、就職でもなく、ただ学校へ行きたいと。
 私は休暇をとって、通勤用の軽自動車で札幌の不登校の生徒を対象にしている学校を見学に行きました。久しぶりに見る若者の集団、100人以上の生徒が活発に動き回る風景をみて娘の目が輝いていました。
 私と娘が一緒に動き回り、その日のできごとについて話していると、だんだん妻も会話に加わるようになり、やがて元のように家族で出かける日々が多くなりました。
 幸いだったのは妻の両親も私の母も、娘や私たちを責めずに見守ってくれたことです。「あの子は賢いから心配はいらないよ」「まあ、そういうこともあるさ」というスタンスです。戦前・戦中・戦後の辛い時代を生き抜いた人々の言葉はぶれない優しさをもっていました。なぜか人生経験の浅い長男も「そういうこともあるさ」と言ってましたが。

  今、私たちの親も飼い猫たちも天寿を全うしてこの世を去り、子どもたちも家を離れ、二人だけの生活になるとあの怒濤の1年間を懐かしく感じます。