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忘れられない柿ピーの味

小学生の頃。
月に一度家の前に大きなバケツに水を張って、私たち3姉妹は肩を並べて上履きを洗いました。
春夏秋冬。
毎月これでもかというくらい汚れる上履きを、ほとんど新品の状態に戻るまで磨きました。
ちょうど今頃の季節は手がかじかんで、姉たちの顔を見ると二人とも鼻が真っ赤で、
「もう冷たすぎ無理!」
と文句ばっかりの私を叱ることなく、代わりに上履きを洗ってくれたりもしました。

「なんや、3人とも怒られたんか。そんな寒そうに水仕事してからに」

私たちの様子を見にくる度、おっちゃんは必ず話しかけてきました。
当時の私にはだいぶ年寄りの老人に見えたけど、今思えばたぶん、まだ60代くらいのおっちゃんでした。
住宅街というには心許なさすぎる、廃れた一本道に並ぶ木造の長屋の家たち。
そこに住む住人たちのほとんどが、時代に取り残されてしまったような”生きた化石たち”に見えて(めちゃくちゃ失礼だけどそう思ってた)、
そんな環境にいた私たちたち一家は、近隣の住人たちからすればだいぶ浮いた存在だったでしょう。
「よう頑張ってんなぁ」
とか
「可哀そうになぁ」
とか言われるたびに、『何が?』とは思ったけど、嫌な気はしませんでした。

今はもうないその家


昼夜働きっぱなしの母のことを、かっこいいと思っていました。
父の失踪後、自宅に英会話教室を開いた母は幼かった頃、いわゆる『鍵っ子』だったそうで、同じような寂しい思いを我が子にはさせないため、自宅を職場にしたそうです。
母の働く姿を間近で見ることができて、家事も仕事も子育ても、なにひとつ手を抜かない母が誇らしかったです。
台風がくると、屋根の瓦がひとつふたつ落ちてくるようなボロボロの家は、
親子4人で暮らすにはやや小さかったけど、お互いの距離感が近すぎたせいか、寂しさを実感する隙もありませんでした。

学校から帰ると必ず誰かが家にいて、
「ただいま」
と言うと、
「おかえり」
が返ってきました。そして母は、ぎゅっとめいっぱいの力を込めて抱きしめてくれました。
その瞬間は、
友だちと喧嘩したことも、
わけのわからない肖像画が黒板の上に掲げられている理由も、
学校では日本語を話してはいけないということも、
何でもかんでも私より先に経験してしまう姉たちに対する劣等感も、
どうでもよくなるから不思議でした。

小学校4年生のある日。
たった一度だけ、学校から帰って来ると誰も家にいなかったことがありました。
いや、そういう日は何度かあったはずですが、何時間も家に入れなかったから特別な記憶として残っています。
ランドセルの前チャックに常に入れてあったはずの鍵が見つからず、途方にくれた私は、半泣きで家の前で体育座りをしていました。
30分経っても誰も帰ってこず、
『このまま一人で生きていかないとアカンの…?』
とか
『もう一生家の中のものには触れないんやろうか』
とか……。
大袈裟すぎて笑えます。
当時の感情グラフを作ったら、全感情が満点を叩き出して、ほぼ完ぺきな円になるでしょう。

柿ピーを持った救世主


しばらく妄想の世界に浸っていると、隣の家の玄関からおばあちゃんが顔を覗かせ、
「なんや泣いてんのか」
と、声をかけてきました。
玄関の引き戸を開けっぱなしにして、式台に座ったまま、こっちこっちと手招きをしていました。
私は、この痩せたおばあちゃんのしわくちゃの顔を
『梅干しみたい』
といつも思っていて、話したことはなかったけど、私たち家族を眺める表情や仕草から、子どもが好きなんだろうな、と漠然と思っていました。
母はお砂糖やお醤油が切れたりすると、たまにこのおばあちゃんから分けてもらっていたようです。

しかし、若干10歳の子どもからしたら、しわくちゃのおばあちゃんはちょっとした宇宙人です。
物事の捉え方も、生きた歴史の長さも、趣味も、匂いも、なにもかもがミステリアスで、どこか恐ろしい存在。

「誰もおらんくて入られへんねやろ。おいで。こっち来てお菓子、食べ」

頭に浮かんだのは、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』でした。
恐る恐る近付いて、「こんにちは」と挨拶をした途端、私にしては久しぶりに声を出して緊張の糸が切れたのか、次から次へと涙が零れて、しまいにはうわーん!と大泣きする始末。
しかし、さすがの梅干しです。狼狽えたりしません。
『どんだけ修羅場くぐってきたと思っとんねん』
という感じの冷静沈着ぶりで私の頭を撫で、
「靴そこ置いてあがり」
と言い残し、家の中に入っていこうとしました。
咄嗟に私は、

お母さんが知らん人の家入ったらアカンって言うた

と嗚咽しながら言い、何が可笑しいのか梅干しは爆笑していました。
年寄りがこんなに大声をあげて笑う場面を見たことがなかったから、もう、まじで魔女に見えました。(失礼)

「そうかそうか、やっぱりちゃんとしてはるなぁ。ほんならここ(式台)座って、これ食べてばあちゃんと待っとこ」
そう言って、あったかい麦茶と、大量の柿ピーの袋を持ってきてくれました。
玄関の引き戸は、開けたまんまでした。

それが、私のファースト柿ピーでした。

何かが欠けた家


柿ピーを貪っている間おばあちゃんは、満足げに私のことを眺めていました。
特に話しかけられることも、質問されることもなく、ただ私の食べる姿を見ていました。
正直、あまり居心地はよくなかったです。
でも、もし本物の魔女だったとして、このおばあちゃんになら食べられちゃっても文句言うのやめようと思いました。

失礼だとも知らず、家の中を覗き込むように首を伸ばすと、家の造りはだいたいうちと同じでした。
そこにはぐつぐつ煮えたぎる鍋も、コウモリも、大きなほうきもありませんでした。

「似たような家やろ?この辺はもう全部だいたい一緒や」
電気を付けていたのかいなかったのか、全体的に暗然たる雰囲気が、家の奥まで漂っていました。
似てるけど、全然似てない。
ここには、人の気配がない。

『おばあちゃん、さみしくないん?』

喉元まで出かかったあの質問は、しなくて良かったのだと、子どもの自分を褒めてあげたいです。

優しい魔女


しばらくしておばあちゃんが
「あんた母ちゃんの電話番号知らんのん?」
と、電話を貸してくれました。
(なんでもっと早く思い浮かばなかったんだろう…)

”今日はお姉ちゃんの高校の説明会やから、絶対鍵持っていきやって言うたやん!!!”

生気みなぎる声が轟く受話器を、投げ捨てるようにおばあちゃんにパスすると、何やらしばらく母と話し込んでいました。
というか、一方的に母が話している様子でした。
『すみません、すみません』
と謝る母の声が聞こえてきて、無性に心細くなったのを覚えています。
家に入れないことについてではなく、私のことを名残惜しそうに見つめたおばあちゃんの眼が。

思い出がない人なんかいない


その後まもなく私たち一家は引っ越し、数年後には、あそこに立ち並んでいた長屋たちは全て取り壊されていました。
おっちゃんも、おばあちゃんも、近所の人たちはその後どうなったのか、一切知りません。

あの柿ピー事件以来、私がおばあちゃんを訪ねることはありませんでした。
顔を合わせることはあっても、それまでのように挨拶をするだけ。
母はあの日、帰って来るや否や頭を下げてお礼を言いに行きました。
あの日以前と以降、変わったことは何もありませんでした。
でも何故か、お互いに初めて同じ惑星出身の人と巡り合えたような、変な感覚だったことだけは覚えています。

甘じょっぱい柿ピーを食べると、今でもふと考えます。
おばあちゃんの人生は、幸せなものだったんだろうか。
きっと大切な瞬間はたくさんあって、あの家の中で一人、何度も何度も思い出を焼き増しして、再生させていたんだろうな。
そんな想像をしては、当の私は自分のことを慰めています。

柿ピー、しばらく食べてないな。
食べたくなっちゃった。




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