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理由

絵を描かない人って、
誰かが描いた絵に対して
〈それが何の絵であるか〉を求めてくる。
子どもの時からそう

「何の絵を描いたの?」
「それは誰?」

しかし実際には誰か、何か、を特別に意識して描く事って
実はそんなになかったりする。
何となく頭に浮かんだ事とか、こういうポーズいいよなぁとか、
漠たる何かに対して突き進む手グセのような描き方というのが、
呼吸するように起こる事って結構あるのよ。

中学生くらいの頃、執拗にそういった質問に晒されて
辟易しながらも、何かそういう言葉に流されて
〈何かである事〉を意識し過ぎた絵を描いていた時期がある。

デスノートのパロディであったり、当時流行っていたヘタリアだったり。
それは誰かのためにあるイラストという点で後に自身が携わる
デザインという分野とも重なるところがあるのかもしれないけれども、
誰かに比重を置きすぎた物には自身が携わった物してそこに存在する価値が
もはや与えられていない。

よく心理学者なんかが子どもの絵を見て
「こういう色を使うのはこういう感情の表れ」だとか
「父親がいないのは家庭環境を表している」だとか
「画面から見切れているのは精神状態の...」だとか
ああキリがない。
ともかくそんなことを訳知り顔で話しているのを聞く。

子どもにも都合というものがある。
手近にあったのがその色だったとか
クレヨンが折れて使いづらいから他のにしたとか
画面に入りきらないから何となくそのまま切った、
あるいは無理やり画面に詰め込んで関節がぐにゃぐにゃになってるとか...
実際は大してこう大げさに理由があるわけじゃない。

でも大人はそういう子どもたちに起きた偶然に何かしたら理由や
物語を付け加えたがる。説明のつかない物事に名前を付けたがる。

年を重ねるごとに
いろんな出来事に理路整然と理由をつける事を求められる
基本理屈っぽい性分ゆえ、理屈、理由、裏付けは大好きけども
そうでなくても良い部分にまでそれを求めないで欲しい。

少し前、
それはきっと「余裕」と呼ばれていたもの。

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