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スプリントは「回す」ものではなく、「繋ぐ」もの

 いつの頃からか、アジャイルで「スプリントを回す」「イテレーションを回す」という言葉に違和感を持つようになった。回していないよな、むしろ繋げているよな、と

 例えば、アジャイルを說明するときに以下のようなイメージを示すことが多い。どう見ても回っている。

 そう、概念的にはアジャイルは「回る」。ゆえに、概念の說明としてはあっている。これから始めるスプリントのプランニングを行い、実際にスプリントでの活動を進め、スプリントの終わりにレビューする。そして、ふりかえりを経て、再びプランニングへと戻る(何も違和感はない)。
 一方で、われわれの現実における物理時間とは、「戻る」ことなく線形に続いていく。時間が戻ることはなく、われわれは常に前進を余儀なくされる。

 この「概念」としての話と「現実」の話を混同すると、微妙に詰まらないことになる。「アジャイルとはスプリントを回すことであり、そのサイクルを繰り返していく」ということに焦点があたり、そうであるかが最も大事かのように捉えてしまいかねない。
 概念としての理解は「回転」で良いが、行為が繰り返せているかだけではなく、別の観点で自分たちの状態を捉えるようにしたい。現実は常に一つ前の状態と同じではなく前回との間に常に「差分」が生まれることになる、この特徴を踏まえた活動にしたい
 前回のスプリントと次のスプリントの間でどのような「差分」があるのか。この差分は、チームにとっての、手掛けるプロダクトやアウトプットにとっての、それらに基づく状況の、「変化」にほかならない。

 つまり、アジャイルとは「変化そのものを生み出す仕組み」であるといえる。アジャイルがうまく機能しているかどうかは、スプリントが作法どおりに回せているかどうかよりも、「変化(差分)」を生み出せているかどうかを気にしたい。何の変化も生み出せていないほうがよほどアジャイルらしくない。

 こう考えると、そもそも「手戻り」という言葉の扱いも別の面が出てくる。概念的には「手戻り」はミスであり、やり直しが必要となる忌むべき状態となる。
 しかし、物理時間の流れの中では「手戻り」は存在しない。あるのは、ある想定外の状態の発見に基づき、次の時間でその対応を行うかどうかの判断とその後の対応行為だ。
 このように捉えると、そもそもフェーズ(関門)を設けて「手戻り」をミスとして捉え、出来る限り無いものとするアプローチのほうが現実的ではないのではないのか。そんな見方も取れる(もちろん、わかりきった、しょうもないミスをどれだけ減らせるかは取り組むべきことだ)。

 「スプリント」とは、現実にはスプリント1、スプリント2、スプリント3…と経時的な前提があり、スプリントnとスプリントn+1の間には常に差分があるはずだ。「差分」をみすみす見逃してはならない。
 そして、前のスプリントと次のスプリントで、見分けがつかない、なんてアジャイルにならないようにしよう。

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