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目の前のことで手一杯だ、なんて話、もう良いだろう?

 仕事柄、比較的な大きな組織にいる方々に向けて、レクチャーをすることが多い。いまだとDXという名の下に、危機感や課題感を捉えていくお話が必要になることがある。

 一つの問いかけを行うことから始める。

「今売っている製品やサービスは、明日も売れ続けると思いますか」

 多くの場合は、「売れ続けない」という答えが帰ってくる。いずれ売れなくなる、という声も多い。このままの延長に何かがあるわけではない、ということに気づけている。

 だが、「明日も世の中から必要とされるために今日は何をするのか」という問いが続くと、沈黙が支配的になる。

 もちろん、皆さんにはこれまでの仕事が山のようにあって、新たに何か考える、始める、ということに絶望的な険しさを感じられることがほとんどだ。いまのままではいけないということはわかっている。しかし、目の前には捌ききれない「昨日からの仕事」がある。

 そういう状況に、頑張って一歩踏み出しましょう、と言ったところで何にもならないのは分かっていますよ。2時間程度のお話で、外からやってきた誰だかよくわからない者にいきなりけしかけられたところで。zoomを落とせばそれで接続は終わり、お話も終わり。

 だから、いつも、自分の話をしている。この10年くらいの、自分の踏み出す一歩について。どういう事件があって、なぜ、どのように、越境したのか。どんな状況でも、細やかなりとしても、「これまで」から越境することはできる。この仮説は検証済なんだ、ということを伝えるには現実の話が要る。

 それでも響かない人がいるのも分かっている。

 「それはあなたの話でしょう」と。その通り。私は私のストーリーを紡いでる。あなたのストーリーはあなたが紡ぐものだ。私でも、会社でもない。

 ただ。その上で一つ伝えたいことがある。いまの40代以上の人たちに向けて。私達が、好むと好まざるとにかかわらず引き継いだこの国の現場の「この先」について、考えてほしい。

 この国のことを「失われたXX年」と批評する、自嘲的な評論を散々聞かされてきた。かれこれ、私が学生の頃から耳にしてきている。そんな国の、価値を生み出す最前線である「現場」にわれわれはまだいる。

 そう、ずいぶん前から番は回ってきていたし、何ならそろそろその役割を終えるターンへと入っている。この現場を「次」に渡すところに差し掛かっているのだ。

 ありありと、仕事をはじめたときの現場の様子を未だに覚えているというのにね。

 われわれは、知らぬ間に受け継いでいたこの「現場」の有様に、時に憤慨し、時に落胆しを、繰り返してきたはずだ。誰が、こんな状況を作ったのか、と。

 過去は、過去。今更どうのこうの言って仕事をしない世代でもない。過去の判断を信じて、目の前のことに脇目も振らず取り組んでいる。同胞して、誇りに思う。

 だが、それでも言わねばならない。

 次の世代において、過去からのしがらみなどにとらわれない、われわれの時よりももっといきいきとしたストーリーが描けるように、現場を残さなければならない。

 ここからの先のストーリーとは、私のストーリーでも、あなたのストーリーでもない、彼、彼女らのストーリーなのだ。そう考えたら、何もできやしない、目の前のことで手一杯だ、なんて話、もう良いだろう?

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