見出し画像

思索的対話(スペキュラティブ・ダイアログ)のすすめ

 共有する、解説する、解決する、決定する。組織の中での会話にはいくつかの目的がある。こうした狙いに応じて、時間の枠を決めて、必要な人を揃える。だいたい1時間の中で、所与の目的を果たす。このままいくと目的が果たせないぞ、となると気の利く人が少し慌て始めて、場を動かしたり、回したりし始める。こういう時間を積み重ねて、組織や現場は運行されていく。

 一方で、当初のイメージ通りに物事を収めていくためのとは一線を画する会話も存在する。場に発言、発露した言葉を手がかりに、広げたり、掘り下げたり、「思索する」ような時間。ブレストのようにむやみにあちこち飛ばしていくのはまた違う、一定の道筋を保ちながら、思考を展開させていく。しかも、それを一人ではなく、複数人で行う、思索的対話スペキュラティブ・ダイアログ

 昔から、あの時間が好きで、そうした思索的な対話が出来る相手や場を自ずと探していた気がする。実はなかなかこの手の時間を意図的に作り出すのは難しい。一人ではない、あくまで複数人で思索するのだ。まず、どう出発地点を作り、実際に走らせ始めれば良いか判然としない。

 「ブレストしよう」というのは分かりやすい。その時点からモードは発散、どう振る舞えば良いか誰もが分かる。「思索しよう」というのは分かりにくい。どう振る舞えば良いのだろうか?

 まずは一人での思索を思索してみよう。

一人での思索

 もちろん思索にも色々な流れがあるだろう。私がぱっと思いつくのはこういうイメージだ。まず「問い」を自分で捉える。これから何を思い巡らせるのか、答えるべきテーマを決めるというわけだ。

 例えば「探索と適応を組織に宿すには一体どうしたら良いのか?」と問いを自らに与える。次に、この「問い」の理解を深める。「前提」は何か? どうなると「効果的」なのか? 誰とやるのか? いつやるのか? 無数の問いを頼りに、これから向かう領域の理解を深めていく。そうした思索の中で、やがて仮説が立つ。先の例で言えば「アジャイル開発そのままでは、適用できない(のではないか)」とか。それから、仮説の解像度を上げていく。そもそも、何を適用すれば良いか、適用の下で何をすれ良いのか、また何が実行の与件となるのか。仮説が成り立つ状態を詳しくしていく。最後には、現実で適用できうる概念として整理する。「アジャイル型価値開発」はまさに思索にあたる。

 イメージ出来てきた。これを複数人でやるのだ。一人では、経験も思考にも限りがある。複数人となれば、自分の外側にある経験と思考も活用し合うことができる。一人では辿り着けないところへも行ける可能性が出てくる。思索的対話の醍醐味はそこにある。

 なぜ、思索的対話が難しいのか? それは最初の最初にある。「問いを出す」、これは誰が出すのか。自分が問いを出した場合、「問いへの理解を深める」のは一体誰なのか。誰が問いへの問いをあげてくれるのか。確かに、意味がわからなければ誰かが問いかけてくれるかもしれない。

 しかし、その後仮説を立てたり、あわよくば何かしらの学び(概念)にたどり着くまでのルートは非常に脆い。「ブレスト」と違って、みんなスペキュラティブなモードに入っていない可能性が高い。「よく分からなかった問いが何言っているか分かった。でも、難しい問いだし、それについて何か答えることは自分はできない」と、おのおのが勝手に会話のターミネートを置いてしまう。

 一つ感じるのは、「問い」も「仮説」も、自分が意図的に出す、だけでは対話が成り立ちにくいということだ。相手にもスペキュラティブになってもらうには、「誰かが出した『お題』」の感覚以上に、もちろん「自分自身の思索対象」になってもらう必要がある。誰かが「期待(これを解いてくれ)」、はたまた「正解」を持っている前提に立たない。自分も、その場にいるみんなにとって、明らかな「正解」がまだない、思い巡らせる対象として捉えたい。間違っても、「誰かに教えて欲しい」などという思いはさらさらないのだ。

 そう捉えると「問い」も「仮説」も、「出す」のではなく、「現れる」感覚が期待される。例えば、誰かが「リモートワークはやっぱり良い」と発言したとする。これでも「問い」になりえる。「リモートワークが良いのは分かるが、その分これまでリアルな場でどうにかしていた領域もきっとあるだろう。それは何で、リモートワークに偏った場合にどうなるのか? そのことにそもそも私達は気付いているのだろうか」を皮切りに、リアルでどうにかしていた領域とは何だろうかと、対話的に領域の理解を深めに行く。

 で、結局、スペキュラティブモードに入っていくためにはどうしたら良いのだろうか。思索的対話の発動条件を一つ思いついた。「思索者を2人混ぜる」ということだ。スペキュラティブモードの存在とその価値を知っている人を2人入れることで、「現れる問い」の手がかりを出す側と、それを活かす側、あるいは。2人がかりで誰かの何気ない発言を「問い」に仕立てていくことができる。

 2人もスペキュラティブモードに入れば、その場の感じは変わる。徐々に周囲を巻き込める可能性を高めていくことができる。そう、2人で始めて、2人で思索を終えるならば、2人で話していれば良い。より思索的対話の意義を高めるには、3人目、4人目に現れてもらいたい。2人が一定の巻き込みをかけていくことで、その出現を期待できる。

 そのうち、ブレスト同様に「思索しよう」という言葉が、定着し始めると、もっとやりやすくなるだろう。ただ、思索的対話は全てが作為的になるとぎこちなくなるように思う。自由さをもって思い巡るためには、自然に発露できることがまた一つ、望ましい環境のように思う(「心理的安全性」がその一つであることは言うまでもない)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?