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「アジャイルとは設計しないことか」 へのもう一つの解説

 「アジャイル」という概念を広く適用していこうとすると、思わぬことに気づくことがある。例えば、「"仕事をする" のに必要なこととは何か」といった極めて根本的な事柄にむきあうことになる。

 「アジャイル開発」であれば、「仕事をする = 開発する」であるから、「そもそも開発とは何か?」という問いで立ち止まったり、ウンウン悩み始めることは少ない。「開発する」ことについて持ち合わせている知識を元に、アジャイルに向き合っていく。

 しかし、文脈が開発から離れた場合、たちまち怪しくなっていく。「仕事をするとはどういうことか?」という問いに立ち返らなければならない。もちろんそんな根本的なことにいきなり気づくことも気にすることもない。この問いは潜在的なのだ。だから、なんとなく進めて、そして上手くいかなさ加減に苦労することになる。

 例えば、マーケティングでも、セールスでもいい、開発ではない文脈で「アジャイル」なるものを適用する。一定の目標を決めて、やることを洗い出して、みんなで取り組む。よくある展開は、2つある。

「これって、今までのタスクマネジメントと何が違うの?」

もしくは、

「たくさん時間を投じている割には、成果が見えてこない」

 前者についても論じるところが多々あるが、ここでは後者のほうを取り上げる。「たくさん時間を投じる = プランニングだの、レビューだのミーティングがやたら増えた」割には、成果が見えてこない。今までとあまり変わらない、あるいは新たな取り組みにトライしているがピリッとした結果が得られない、といった具合だ。

 この展開にも大きく2つの要因がある。一つは、WHYが置き去りになっている、もう一つはHOWがなさすぎる。前者のことは、よく言及される観点になってきた。問題は、後者だ。「仕事をする」には、「どのようにして結果、成果にたどり着くか」という「設計」がなければならない。よほど単純なものでもなければ、設計なくして仕事は成り立たない。

 そう、「アジャイルに仕事をする」というトライの中では、これまで当たり前のようにやってきた「仕事自体を組み立てる(設計する)」という行為が消失してしまう状況が起きやすい。

 厄介なのは、「アジャイルに仕事をする」でいう「仕事」の中身が、「既にある知識で解決できるもの」なのか「新たな知識が必要なのか」でさらに分かれるところである。前者はまだなんとかなる。後者の場合は悲惨だ。アジャイルの回転のたびに、仕事は崩壊していく。「どうやってやるか」がなさすぎるのだ。

 なぜ、そんなことが起きるのか。仕事に熟達していくと、私達は「仕事の設計」の多くを端折れるようになる。いつものようにやる、で済むところが増えていくからだ。チームによる仕事であったとしても、チームで共有する暗黙知が増える。そうやって私達は仕事の効率性を上げてきたのだ。
 だからこそ、「新たな知識が必要な仕事」には慎重になれる。いままでとは異なる方法が求められるからだ。むしろ慎重になりすぎて、これまでの方法に固執してやはり成果があがらないという別の問題すら招くことになる(効率性への過度な最適化)。
 ところが、仕事の取り組み自体を変える場合は、「アジャイル」なるものへの適応が求められ、チームの意識はそのことで目一杯になる。「新たな知識が必要な仕事」をどうやってやるか、というHOWについてはスルーされる。何か不安も感じるが、「アジャイルとはそういうものか(設計しない)」と片付けてしまう(片付けてしまえる)。

 ゆえに、「"顧客のインサイトを掴み直そう(リサーチ)" をアジャイルにやろう」といった試みは、ぐんにゃりとする確率が高い。ここまで述べたとおり、リサーチ自体の作戦がなさすぎるからだ。

 そう、リサーチがアジャイルに向いていないのではない。「"仕事をする" のに必要なこととは何か」という問いに向き合えていないだけだ。設計は、仕事に必要だ。

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