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「ウェルビーイング」と「アジャイル」
先日、渡邊淳司さんと「ウェルビーイング☓アジャイル」というテーマで対談を行った。とても示唆があり、充実の2時間を過ごすことができた。この模様は渡邊さんが手掛ける冊子にまとめられる予定になっている。同時に、私も気付かされるところを言語化していきたいと思う。
渡邊さんの「ウェルビーイングのつくりかた」を読んでいると、だれのウェルビーイングなのか?という問いをもとに、わたし、ひとびと(三人称)、わたしたちという分けが提示される。このわたし、わたしたちをどう捉えるかがウェルビーイングを思う際の起点にあり、かつアジャイルとの共通するところになる。
私なりにこの概念を説明しようとするとこう感じになる。
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「わたし」とは、どこにおける「わたし」なのか。「わたしたち」とはどこまでを入れた「わたしたち」なのか。プロダクトづくりや事業開発でも、この視点は重要になる。何のために作っているのか? を考える上では「わたしたち」の拡大縮小の行き来が必要であり、正しく作れているか? をふりかえる上では「わたし」の捉え方が効いてくる。
そう、ふりかえりやむきなおりでは、何となく「わたし」や「わたしたち」を使っているかもしれない。この指すものやそのコンテキストの捉え方を変えることで、全く異なる「ふりかえり」や「むきなおり」になりうる。
ウェルビーイングとは、当事者とは誰のことなのか? を考える切欠となるものだと思う。この視点を自在に動かせるようになると、私達の生産的活動、創造的活動に、それまでにはなかった展開を見出せるようになる。私は、こうして見るものを変え、現実に領域を越えていくことを「越境」と呼んだ。
わたしたちをチームと捉えるところから、顧客やユーザーを加えられれば、何が望ましいことなのかの選択肢は広がる。価値や意味あることとは何か、についての仮説を立てられるようになる。もちろん、仮説は仮説だから、検証のために彼、彼女たちの領域に入っていく必要がある。現実に起きていることや、実際の営みを見て、聴いて、触れることで、仮説の確からしさを得ることが出来る。あるいは、あらたな問いが浮かび、次の仮説へと繋がる。この流れを「探索」と「適応」と呼ぶ。
ウェルビーイングとアジャイルという構成概念はかなり重なるところがあり、かつ、アジャイルという動き型がウェルビーイングに営んでいくことの手がかりにもなりうる。という話についても、また。
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