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本当は怖い、「まあ、はじめたばかりだから様子をみよう。」

 組織的な取り組みなどで上手くいってない事案をふりかえってみると、だいたい「判断間違い」に原因として辿り着く。正確には「判断間違いのままにしている、その上でさらに判断間違いを重ねる」というところにだ。

 人のアサイン、取り組みのレベル感、程度の置き方、関係者間のコミュニケーションの方法などなど。やや分かりにくい観点であるが、「やはりあのときの判断はミスだった」ということに辿り着く。
 そして、その判断間違いが未だ続いている、正されていないままということもある。つまり、その判断間違いの間に間違いを上塗りして、さらに状態を悪化させていく。こうなると取り戻しようがなくなっていく。

 もちろん、判断間違いは普通にあることだ。ゆえに、いかに早く判断が妥当だったかを検証し、「次の判断を適切にするか」が勝負となる。判断の正確性を事前に精緻にあげようとすることは昨今たいてい筋悪のことが多い。
 それと同じく、いやときにそれ以上に実害をもたらしてしまうのが、判断後の放置である。

 「判断間違いの放置問題」は、意外と気付きにくいところにその厄介さがある。判断間違いをしているかもしれない、その可能性への思い巡らしから、自分たちで距離を作ってしまうことがある。
 間違いへの適応を殺してしまうフレーズは「まあ、はじめたばかりだから様子をみよう」だ。

 「様子をみよう」が三ヶ月も続いた頃には、やめられなくなっている、あるいはもはや何かをしようとするモチベーションが下がってしまっている
 私達が扱っている仕事とは、スイッチのオンオフのようにいつでも切り替えられるようなものでもない。人が関与する以上、そこには人の感情が入ってくる。ダメな状況が続いて、突破口なくそれに向き合い続けたら、それは気持ちも萎えてくる。次もまたダメだろうと思ってしまう。
 「様子を見よう」は、たいてい妥当な判断に聞こえるから、なかなかカイゼンの機運が高まらない。そもそも、この手の判断のマインドには問題を先送りたい成分が効いているところがあり、余計に機敏な転回ができない。

 判断後の結果確認、それを定期的継続的に行う。仕組みを利用するなら、スプリントレビューやふりかえりに観点として加えると良い。たとえ1回先送りが発生したとしても、その後、「先送りしている」という回数をスプリントごとに数えることになる。違和感に気づける可能性を高めることができる。

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