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組織の変革に挑むWHYとは何か?それは勘違いに近い気概であり、狂気ですらあるのだろう。

 DX、要するに組織変革に臨むにあたって、奇妙な感覚に囚われることがある。目の前の組織を変えていくことへの私の「WHY」とは何なのか?

 仕事の上なので対価を頂く。ただ、対価を頂くことが目的かというとそうではない。対価だけが目的ならば、もっと割が合う仕事が他にあるだろう。それほど、「組織を変える」なる活動に伴う労力、そこで費やすガッツとパッションは途方もないところがある。

 自分の楽しみのために、例えば自分のちからが如何なく発揮できるからこそ、挑戦する。何よりも取り組むことで得られる学びがあり、そのために仕事へ臨む。そういう観点を仕事へのWHYに挙げる人もいるだろう。
 私も、組織変革というとてつもなくハードルの高い仕事に挑むにあたって、日々学びしかない。学びはある、そこは合致する。しかし、学ぶためにこの仕事を選んでいるわけではない。学びを得る目的ならば、歯を食いしばってギリギリと言わせながら、といった思いをそれほど必要としないだろう。もっと分が良い仕事を選べるだろう。

 何のために、組織を変えることに挑むのか? 私にとって、挑む組織はあくまで他者の組織である。10年20年所属してきて、その結果として自分の組織を守りたい、その思いからどうにかしたい、というWHYがあるわけではない。

 そこまで思いめぐらせて、気がついた。

 組織の中にいるといかなる報酬が得られ、相応のポジションが獲得していけるかが個人としては大事なモチベーションになるはずだ。それはごく当たり前のことであり、私も組織に所属する一員ならば、きっとそれらを重要なテーマにするだろう。

 ところが、現代の日本組織を変えていくためには、そうしたごく当たり前に追い求めて良いWHYを超越する必要が出てくる。挑むのは、これまで組織が当たり前に置いてきた判断基準や振る舞いを変えていくことだ。その過程において、対価もポジションも約束されることはない。
 なぜなら、その挑戦は組織内においてはまっとうとされる王道から外れた「けもの道」であり、失敗して当然の所業だからだ。まっとうな組織判断として「失敗」とはいまだ「失敗」であって、評価にプラスには働かない。

 つまり、取り組んでも基本的に勝ち目はなし、それでも、組織変革に挑むにあたっては無尽蔵に湧き出るようなガッツとパッションが燃料として求められる。割にも合わないし、分も悪い。まっとうなWHYを超越したWHYを胸に秘める必要がある。なんなんだそれは。

 それは、もはや目の前の組織のためではないのだろう。むしろ組織を超えたところにある何かにまで意図的に視野を広げねば手がかりは見つからない。どこまで広げたらWHYが見つかるのかは当事者次第。どれだけ広げたとしても見つからないなら、違うことを考え始めたほうがいい。
 私の場合はこう考えている。この組織が何らかの変化を起こせたとすれば、それは同業他社、あるいは業界においてリファレンスケースとなりうる。そうなれば、わずか1社の話ではもはやなく。より広く様々な組織に影響を及ぼす可能性が見いだせる。
 つまり、ある組織の変化は、日本にとってのリファレンス、変わる手がかりになりうる。そうした勘違いにも近い気概、もはや狂気が「けもの道」を進めと、駆り立てるのだろう
 少なくとも、私にとってのWHYはそうだ。こんなWHYを置くことが正しいとは思えないし、他者に求めることではない。ただ。ただ同じように、勘違いができる仲間が目の前の組織にいるならば。行けるところまで行ってみたいと思う。


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