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これまでかけた時間が味方にも妨げにもなる

 ある組織でのアジャイルの取り組みを聞いた。金融方面の伝統的な大企業で、数年がかりでスクラムチームを複数立ち上げるに至ったという。私はそれを聞いて、着実に成果に繋がっている、大したものだと感じた。

 ところが、その旗を振ってきた当の本人はそう思っていない。充足が得られていないようだった。とても苦労をされたのだろう、そこにかけた時間を振り返り、踏まえると、この先には絶望感すら漂うという様子だった。

「なぜ、これほどの苦労をしなければならないのか」という鬱屈した思いが根底にあるのだろう。「他の組織のことを知りたい。もっと上手くやれているのだろう。」気持ちは分かる。

 これまでのあり方ややり方を越えて、組織として細やかながらも、新たな一歩を踏み出す。ときに手痛い失敗も織り交ぜながら、地道に積み重ね、続けていく。確かに歩みはある。しかし、あるとき足跡を振り返ったときに愕然とするのだ。「まだ、これだけの歩みか。一体この先を行くのにどれほどの時間がかかるのか」と。

 この思いは道を踏み外していくと、取り返しのつかない方向へ行ってしまう。これほどやっているのに、これほど語っているのに、これほど働きかけているのに、同僚もメンバーも上司も経営者も分かってくれない。越境を志す人ほど、変えることへの思いが人一倍強いため、一旦負の方向へ触れだすと反動が大きくなる。

 気持ちはわかる。だが、それでも、言わねばならない。自分の向かいたい先を見据えて、その歩みを止めてはいけない、と。

 この先に、あなたの向かいたい場所がないというなら、即考え直したほうが良い。しかし、ここまでくるのにどれほど時間がかかったかは、この先のことを判断するのには、関係がない

 あなたの取り組みが、経営の耳に届き、その関心と合うのは、3年後ではなく、明日のことかもしれないのだ。

 ここまでたどり着くのに必要だったことを、これからもそのまま積み重ねることが、必ずしも「明日」に繋がるわけではない。それは、悲観したくなる「事実」かもしれないが、同時に楽観をもたらす「希望」でもある。

 道は続いているはずだ。ただ、そこにたどり着く刻が誰にも分からないのだ。もちろん、自分自身の時間のことだ。好きにすれば良い。

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