見出し画像

環境から切断し、自分自身を通して考えるということ

 引き続き、足を骨折している話。

 足の骨の一部が少し折れたくらいの認識だったが、不自由さは格段に上がっている。単純に、ケンケン歩きを24時間、n日間求められることの苦痛を想像すればだいたい合致する。一歩一歩が常に不安定。もう1回こけたら立ち直れそうにないため、慎重に慎重を期す。もちろん外に出る気もうせる。
 どうしても外に出る際は腕(松葉杖)を第3と第4の足代わりにする。この「松葉杖をつく」ということ自体が筋トレに等しい。歩く、すなわち、筋トレという日々がどれほど気を挫くか。

 要は、味わったことがない、QoLの下がりっぷりに直面する。出来ることのほうが圧倒的に少なくなる。

「考える」が増える

 その一方で、こうした強制的な状況に置かれることで、普段にはない気付きもある。年末年始は常にソファーの上の人。仕事が始まってからも常にソファーの上の人。つまり、ソファーの上でできることしかできない。出来ることが少ない = やれることが限られる = その分可処分時間が増える。新たに考える時間が増えた。

 普段であれば、入力も出力も「仕事」が起点で、そのサイクルの中に考える時間があった。今は、考える時間が先にあり、仕事がそこに包含されている。結果として考える時間への入力は、仕事以外が増えた。普段は読まない(読む時間がない)本や論文が圧倒的に増えた。ただ、それ以上に「自分自身」が考えることの源になった。

 自分自身が何に関心を持っているか、意欲を感じているか。何が大事で、優先度が落ちるのは何か。仕事としての検査適応ではなく、自分としての検査適応が回るイメージ。でも、これって、単に時間が増えたことだけが契機ではない気がした。

環境から切断して「考える」

 「分人」という言葉があるように、人は一個人でありながら、複数の自分を持ち、使い分けている。仕事や家庭、コミュニティなどいくつもの環境に対して、自分を持っている。そして、それぞれの環境から想像以上に多くの影響を受けながら「自分」を作り出している。つまり、それぞれの環境における「自分」とは自分の意のままにできるように思えるが、外部からの影響に応答せねばならない以上、実際には「作られている」、環境と自身による共同制作物が「自分」なのだ。

 そのように考えると、世界がソファーの上になってしまった人間の環境とは、外部からの影響がかなり入りにくい状況になり、自ずと「自分自身」に向き合うより他なくなってしまう。強制的に生み出された時間の中で、考えることにあてる先は環境周辺ではなく、まず「自分自身」になる。

 これは「自分のことだけを考える」という意味ではない。家族、顧客、会社、友人のことを考える際に、環境からの入力が一旦ストップされるため、「自分自身を通して他者を考える」という構図になるということだ。われわれの日常は忙しい。環境からの入力がひっきりなしにあると、考えるということは反応的になる。あるいは広く考えることができず、情報を無意識に絞り込んで、「速く考える」ようにする。そうした「考える」と、同じ対象であっても、環境から断絶された中で「考える」とは異なるものになる。

 人が持つ関心や意欲という動力源もまたリソースに他ならない。限られた動力をどこに向けるか。ベクトルの向き先が環境中心になると、自分の番はなかなか回らなくなる。ときに日常と切り離した時間、空間を意図的に作り出すことには、やはり意味がある。ただし、骨折生活は全くもっておおすすめしない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?