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その言葉は、相手にも届いているか。

 受け止めた側がどうとでも解釈できる言葉と、逆に解釈の余地が少ない表現とがある。前者のような言葉は解像度が低く、後者は解像度が高いと言える。解像度の高低によって、お互いの理解、会話の速度に影響が現れる。そのイメージはこのような感じだ。

 会話をしていて、いまいち理解があってないと感じたら言葉の解像度を高めて、意味するところを特定できるようにする。

解像度の低い言葉でのコミュニケーション

 解像度の低い言葉を使うと、会話のテンポは早くなる。その一方で言葉が意味するところを突き詰めて考えようとすると、人によって見方や定義にブレが生じて、理解をあわせにくい。聞き手のそれまでの経験や知識に理解の仕方を委ねるような方向になる。ゆえに、前提が揃わないままの進行となるため、コミュニケーションの着地もあいまいになりがちになる。結局、その場としての理解は深まらない。

 例えば「チームは自己組織化をめざすべきだ」という表明があったとする。おそらく、その表明自体に異議は唱えられず、会話を進めていける。では、具体的にはどうしていくべきなのかと議論を深めていこうとすると、そもそもどういう状態を目指すのだっけと、方向性があっていなかったことに気づくことがある。あるいは最後まで気づかず、ムダな会話になることもある。

 また、あまりにも解像度が低いとその言葉の意味を確かめないことには会話が成り立たくなり、会話のテンポ自体も遅くなる。

解像度の高い言葉でのコミュニケーション

 一方、解像度の高い言葉は、表現する内容の粒度が細かくなっていくため、意味するところが明確になり合わせやすく、相互理解が深まる。ただし、必要な言語量が多くなり、会話は遅くなっていく。

 ある程度まで解像度を高めると、言葉が細かくなりすぎて会話が長くなる。そして、時間が長くなるほど受け止めなければならない言葉、内容が多くなり、理解が深まらない状態にもなる。

 「チームは他からのコントロールや制約を受けずに、自分たち自身で立てた規範に従って行動し、置かれた環境に対して正しい順序・筋道を維持できるよう自身の組織構造を作り出せるようめざすべきだ」は、意味する所を正確に表現しようとしているが、相手が一度に受け止めるには煩雑だ。

言葉の解像度を場にあわせる

 こうした解像度の制御の難しさは、その「高低」を一方的に決められないところだ。受け止める相手によって同じ言葉でも高い低いが変わるという前提に立ち、相手に応じて解像度の上げ下げをしなければならない。ただ、探索的な会話は高度なコミュニケーションとなる一方で、言葉のやりとり自体の楽しさにも繋がる。誰かと「言葉」を共有できると、その状態に嬉しくなる。次の会話も、その理解の上で始められるしね。


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