言葉に情報量を持たせるための設計方法論

ちょっと冷静になって考えると、「雪女」に対して「現代」みたいなものを対比しようとするその姿勢がすでに凡庸なのだろうか。いや、現代において俳句を作る以上、そこからは逃れられない。問題は、その手つきが凡庸であってはならない、ということだ。

例えば「どぶねずみみたいなおれと雪女」はどうか。雪女の美しいイメージとブルーハーツの歌詞を対比するのは、いかにも直線的で、赤字の対策は売り上げを増やすことだ、みたいな、単純な表裏のロジックしかない。つまり、情報量が少ない。

それにひきかえ、昨日の放送にあった「透析の部屋徐(しず)かなり神の旅」はどうか。神の旅、という言葉にある、大自然の雄大な循環、往きては還る運動の感じが引き出されている。それに加えて、そのものずばり、神という言葉の「あちら」の感じ。なぜそれが引き出されているかというと、スイカに塩をかけると甘味が引き立つ、みたいな原理がそこにある。透析というごく個人的な血液の循環、死をそばにきっと感じるであろう時間。ただじっとする以外にない時間。両者には不思議と響き合うなにかがあり、行間があり、情報量が多い。たった十七文字なのに、意味が豊かなのである。

神の旅という季語の雄大さ、スケール感を強調する、そのために、個人の時間と部屋を対置する。もちろこういう読解をするためには、少しばかり、俳句の世界に入門する必要があるだろう。誰にでも同じように受け取れるような読みじゃない。そういう意味では、どぶねずみの句の方が一般性がある。しかしいま私が求め憧れるのは透析の句的な俳句観であり、これを教師として考える。

という前提で、いまここで、雪女の季語で俳句を作るとして、雪女という存在の、何を主題とすべきなのだろう。

もう少し、豊かに連想してみよう。

雪女と聞くと、何を思い浮かべるか。

昔、昔話、妖艶、白、雪、山、夜、後ろ姿、囲炉裏。女、美女、老婆。恨み、怨念。慕情、恋、恋心。待つ。佇む。振り返る。片思い。寂しさ。報われない思い。過去。

情念、そう、情念だ。雪女の本質とはなにか。情念以外にない。裏切りには死をもって報いる。容赦ない情念。

現代において、雪女に象徴される情念とは、どんな風景に佇むことができるだろうか。

路傍。駅のホーム。出入り口。雑踏。なんか、そんな風景を連想した。なぜだろう。人が行き交う流れが途切れない、都会的な場所。報われない思いがそこに残存している。うーん。どうなんだろう。カラオケの安いムービーみたいだな。

方向性を変えてみよう。情念。綺麗に言えば、それは、願い、でもある。星に願いを。はたまた、白雪姫、マッチ売りの少女。ディズニー的なイメージをあえて雪女に重ねることはできないか。オリオン座。シリウス。うーん。これもまたらちょっと違うか。

季語と対置する言葉は、近すぎても、離れすぎてもいけないのだろう。ある種の緊張感をもたらす言葉。相似している何かを含む概念。意表を突きながらも、確かに相互につながり合う存在。

共通する属性と相反する属性、その両方を備えた言葉。そういうことになるのかもしれない。

例えば、情念というものからはかけ離れた乾いたイメージと、後ろ姿が似合うことが両立するような場所、空間、あるいはアイテム、など。うーん。一体なんだ、それは。

正しい順序で分解し、システマチックに考えると、こんな感じなんだと思う。加えて、音の感じやリズムの面からアプローチしていくことで、もっと精緻に設計できたり、モチーフを決める根拠が持てたりするのかもしれない。

しかし最後の最後にはインスピレーションなりクリエイティブジャンプなりが必要、なのかもしれない。本当の天才型の作家は、こういう理屈をすっ飛ばして名作傑作を生み出せるのかもしれない。

なぜこういうことを書くかと言うと、2分なり5分なりの曲を作る行為にも、設計や根拠が必要で、その技術を磨くにあたって、十七文字という極めてミニマムな表現に入門することは、やはり意味があることだと思うのである。

(ようへい)


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