一歳半の幼児にも、会話はできる

1歳半を過ぎた次女の話。

まだ、いくつかの単語が少しと、二語文を少々話すぐらいで、言葉が早い方ではない。

そんな次女の保育園での様子はというと、同じくまだそんなにお話はできないお友達と、うにゃうにゃ、もにょもにょ、おしゃべりをするというのである。お互いに見合って笑ったり、まさしく女子会的な光景が微笑ましかった、と、連絡帳に書いてあった。

多分、それは、「会話に見えた」という認識が正しいのではなく、「まさしく会話だった」そういうことなんじゃないかなぁと思う。

会話において、言葉とは、補助的なツールでしかないのだと、最近、強く思っていて、次女の話で、それが確信に変わったのである。

最近仕事でたまたま、機械的に書き起こされた打ち合わせの記録を読んだり、自分でも、割と一字一句を書起こすようなことがあった。いざこれをやると、人間が、いかに支離滅裂な言葉を発しているかがわかる。

テレカンシステムや電話など、リモート会議の仕組みは色々あるが、それらの手段がいかに情報を欠損させるか、やはり対面で交わす情報量にはかなわない、というのも、自明な経験的事実である。

言語化や図案化は、情報圧縮の手段であり、適切にこれが行われると、恐るべき伝播性を持つ。メディアの本質とは、そういうことだ。

かたや、直接面と向かって、身振り手振りを交え、空気を振動させ、同じ時間を共有する、これは無圧縮の意思疎通である。そこにおいては、言語化は上手いに越したことはないが、実はその巧拙には全く関係なく、本当に伝わるべきことというものは、伝わるんじゃないか。

それは、伝えたいというエゴのなせる技だけでなく、生きていくために、互いに察知するという、間主体的作用によるものではないか。

例えば、あるビジネスパーソンが、ある商品の効果効能を伝える場があるとする。中心にあるのは、言語化され、数値化され、図案化された情報だ。しかし例えばそれが二人にとって、初めての商談だったとしたら。とても大切な、失敗のできない調達だったら。たとえスペックが要求を満たしていたとしても、その情報だけで取り引きをするわけではない。その情報をどうやって用意したか、どのように表現したか。情報そのものだけではなく、その周辺的なもの、容器的なもの、それらが総合的に語りかけてくる何か、それをもってして、相手と付き合うかどうかを決める。その思考過程は、実に無意識的だから、当の自分もよくわかっていない。

なんだ、かんだ、あれやねん、どれやねん、これやねん、いやそやかてそれやねん、わぁわぁやったその後に、ある瞬間、腑に落ちる。会話というものは、腑に落ちる、身体的に受け容れられることが大切で、頭でどうこうするのでは、何かが足りないのだ。

結論が正しいことは必要条件だが、手続きが正しいのは十分条件なのである。

腑に落ちるためには、中心的な情報だけではなく、これに加えて、周辺的なコンテンツが必要だ。人間とは実は、むしろこのコンテンツによって、様々な仮想演習やメタレベルの判断を行なっている。

初めてパパバンドとして演奏会の舞台に立ったとき、直観的に、子どもに嘘は通じないから、とにかく楽しんでもらえるように、一生懸命にやろうと、わりと自然に合意していた。あにはからんや、演奏はわりとグダグダだったのだが、にもかかわらすが、だからこそなのか、大いに満足をしていただいて、それが、その後何年も続くこの活動のスタート地点となったのだった。

会話とは、腑に落ちるためにすることである。

そのためには、巧拙も大切だが、それと同じくらい大切なプロセスもある。AI時代にプロの将棋指しは一体どうなる、みたいな話は随分と前からあるけれど、これに与する人は、棋譜という結果、あるいは情報だけが価値なのだという無自覚な前提に立っている。かたやで、音楽業界は、音源データではないライブや握手会にとうの昔から舵を切っている。

情報技術が進歩すればするほど、人間の身体性がますます強い意味を持ってくる。そんなことを、保育園の連絡帳から、思ったのだった。

(ようへい)


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