2歳の子どもの、言葉にならない気持ち

2歳をほんのちょっぴり過ぎて、次女の自己主張がかしましい。「なーい」とか「あったねー」とか、「いーやーいーやー、きーやーうー」(キラキラ光る)とか、おぼろげながら言葉が出かかっている。うちにある思考は形をなし、成熟しつつある。もうちょっとで、言葉が出そうな感じがある。それなのに、表現できない。

そこで溜まるエネルギーときたら!

泣く。泣いて泣いて主張する。あたちにはいま、ふまんがある。喉元まで出かかっているのに、それを言葉で表せない。そのもどかしさ。

この時期の泣くは、生まれたての頃のそれとも違うし、ものごころついたあととも違う。もどかしさ、の泣きだ。だから、思いが通じたときは嬉しそうだ。こちらも嬉しい。泣きは収まってくれたら嬉しい。でもすぐにまた違う何かでグズリ出す。以下リピート。

おっぱい飲みたい、おやつ食べたい、抱っこして欲しい、おもちゃで遊びたい。表面的な要望に振り回されていると、実はムズがりの根本原因を見逃す。

鼻が詰まって、眠いのに寝付けなかったから、機嫌が悪かっただけ、みたいなことだったりする。

より深いニーズを探り当てることができたら、それはそれで達成感がある。

ここまで書いて思ったが、なんか、そういうところも含めて、どこかの企業をコンサルしてるのと変わらない。

課題がある、それは知覚している。モヤモヤしている、イライラしている、ザワザワしている。その原因も現象も、我が身の内側にある。でも、それが具体的にどれとは言語化できない。隔靴掻痒!

それはあるいは、肩凝りにも似ている。

誰かに診てもらって、これが原因でこれが処方という処置が的確であればあるほど、えもいわれぬ深い満足と安心が訪れる。

自分自身の心身なのに、いやだからこそなのか、意識や言葉の力が届かない内奥の領域。そこを照らすことができる技術が手に入ったら、生きるのが少し楽になるのではないか。音楽や文学、絵や映画の果たす機能とはまさしくそういうことを多分に含んでいる。誰かが自分の内奥を掘ったシャベルが、自分にも通じる不思議と快感。でもあの、ツボにハマってちょうどよく患部を刺激できた快感って、なんなんだろうね。あ、そこそこそこそこ、っていうやつ。

そんな目で世のコンテンツを眺めると、電気ショックみたいに誰彼かまわず刺激しちゃうのもあれば、特定の症例にだけ深〜くきくのとか、マッサージ椅子みたいに、大体みんなにそれなりにきくものとか、緊張と痛みをグリグリきかせてから解放を味合わせたりとか、結構いろんなほぐし方をしている。

寝かしつけをしながら、手短に2歳の子どもの話をちょっと書き残しておこうと思っただけなのに、また飛躍してしまった。こうして寝室でスマホで三十分ほどかけて文章書いているうちに、やっと眠りの国に旅立ってくれた。今夜もメルシーポットで鼻を吸ったのが功を奏した。やれやれ。

(ようへい)

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