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歌詞を紡ぐ

こつこつと歌詞を書いては消し、消しては書く作業。


漱石の夢十夜の第六夜で、運慶が木の中に埋まっている仁王を掘り出す話があって、それに近いなと思ったりしなくもない。
あるいはジャコメッティは肖像画を描いては消し描いては消し、決して完成はしないのだが、それでもその一日はとても進んだと言って喜ぶ、喜んだかと思ったら、すぐに嘆き始めて作ったものを消してしまう、のに近いと思わないわけでもない。


ようへいメンバーから送られてきた音源を何度も聞きながら、ふさわしい言葉を紡いでいくのだが、その日のテンションで生まれてくる言葉があり、あるいはその日のテンションでは生まれてはこない言葉がある。


それは自転車に乗っているときに急に思いついたりし、それをスマホのボイスメモに書き残し、今までの歌詞に当てはめてみる。良かったり悪かったりする。書いては消す。消しては書く。


そんな作業を繰り返す中で、今作っている「抜けてるお父さん」(という題名がふさわしいかどうかは今の段階ではもうよくわからない)の世界観が、当初思っていたところからはずいぶんと遠いところに来ているような気がしてしまうのだが、でもそれはこの曲が持っている力学だろう。あるいはアフォーダンスっていう言葉がふさわしいならばそうだ。


正解はないが到達点はあって、日々重ねていくほどにある一定の深みと高みにはたどり着く。もしかしたらそれはぐるっと回って一回りなのかもしれないが、ぐるっと回ったぶんの深みを得た出発点なので、それは落ち着くべき必然だ。


もしかしたらそうやって作り続ける行為それ自体が幸福であり、その幸福をできるだけ引き延ばそうとしている、わけではなく、完成を早く見たい。


作れば作るほどに「曲にふさわしい歌詞だ」ということがわかる感覚が養われていく。それはとても個人的な感覚なのだが、世にあるどんな歌詞も「とても個人的な感覚」を出発点に紡がれていっただろう(地球の声を聴いて紡いだ歌詞もあるだろうが、いずれもひとりの人間から出てきたのだからとても個人的な感覚だ)。

今宵もまた夜な夜な歌詞作りに入っていくのだが、そろそろいい感じの場所にたどり着けそうではあり、それをまたああだこうだと言う。

(ひさとし)

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