スカスカな時間を生きては甲斐もなし

歳を重ねると時間が速く感じる理由には諸説あるけれど、いまの自分が自分の頭で考えるとすると、「意識の起点をどこに置くか」ということなんじゃないかなと思っている。

明日こうなろうと思って、それを実現する過程としての現在を生きる時間。

いま自分がこうありたいと思って、身体や環境と相互作用しながら生きる時間。

昨日はああだったな、だったのになという余韻に浸って生きる時間。

前者は、自分自身を客体化してしまっている。そこに自分自身はいない。到来した瞬間に、過程の時間など吹き飛んでしまう。実のある時間を過ごしていない。心ここにあらずというやつだ。

身体には、過去も未来もない。徹底的に、現在しかない。

あとわずかしか時間がないとか、時間が過ぎるのが速すぎるとか、そういうことを大人は言ってしまいがちだ。しかしそれは、あんまり健康的じゃない。スカスカの時間、密度の低い時間を過ごすから、速く感じるのではないか。

子どもの頃、五分が長かった。あまりの長さにうんざりしていたし、一時間も時間があったら、もうどうしたらいいかわからなかった。

そもそも未来の自分を考える想像力もなければ、それをする必要性もなかったから、今という時間から離脱できなかった。そういうことなのかもしれない。未来がスカスカだから、結果的に現在が濃かったのだ、という。そう考えると、別に褒められた話ではないなぁ。

充実した時間とはなにか。いま、五感を通して感じること。心の中に湧き起こっては去っていく記憶や感情。そうしたものに集中すると、時間のすぎかたは変わる。ものを作ったり書いたり、対象に集中する時間。それは濃厚な時間だ。そうやって過ごす時間は、「あっという間」だが、虚ろではない。

「あと二ヶ月で令和も終わっちゃうのか」とか、言いたくなる。しかし、それは、言わずにこらえるのが正しい作法なのかもしれない。そういった発話に馴れすぎると、「あと二ヶ月で人生も終わっちゃうのか」に、あまりにも接近してしまう。

大学生のころ、早く卒業して社会に出たかった。社会人というものに、異様な憧れがあった。でも、会社に入ってものの数ヶ月で萎えた。結局のところ、いまという時間を受け入れられなくて、未来に逃避していただけだった。考えてみれば、ずっと、そうだった。ここにきてようやく違ってきている感じは、少しある。そんな自分に、ちょっとだけ期待している。

自分の子どもには、今という時間を十全に生きて欲しいなぁと思う。親は、自分が子ども時代に欠けていたものを子どもに与えたいと願う生き物だ。それは、食べ物だったり、教育だったりしてきた。いまこ自分にとってのそれは、「時間」だ。

それは、物質的に満ち足りたからこそ、なのか。

むしろ、満ち足りる以前には当たり前にあったものなのだろうか。

そのあたりはよく分からない。でもなんか、子どもの時間について、将来のための、という時間の設定は、やりたくない気がしてならない。

しかしなんだ、こうして時間時間言ってる当のこの自分は、生き方としてどうなんだろう?と、思わなくもない。まあ、それは、トランジションの途中だから。

(ようへい)

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