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小麦と僕ら

塩崎省吾さんの著作「ソース焼きそばの謎」(ハヤカワ新書/2023年7月)に、以下のような記述が出てくる。

 昭和二八年(一九五三年)頃から、アメリカで小麦が大量に余り始めた。
 要因は第二次世界大戦にまで遡る。当時、連合国を支援する目的で、アメリカは農業の生産力を大幅に増大させた。本来の需要だけでは手に余る、戦争の大量消費を前提とした過剰な生産力だった。
 一九四五年に戦争が終結した当初は、世界的な食糧不足だったので、過剰な生産力はプラスに働いた。また、一九五〇年の朝鮮戦争勃発で、再び需要も回復した。しかし一九五三年七月に朝鮮戦争の休戦が成立すると、いよいよ過剰供給の問題が表面化する。
 アメリカ政府は、軍事援助の名目で自由陣営に余剰小麦を引き受けさせるよう準備した。

〈中略〉

 一九五四年、アメリカで見返資金の使途を軍事目的に限定しない農産物貿易促進援助法、通称「余剰農産物処理法」が制定された。それに基づいて日本は「余剰農産物協定」を締結した。
 ちなみにこの協定には、学校給食用の小麦や脱脂粉乳が贈与分として付帯した。

…というわけで、1961年生まれの僕には、パンの給食の記憶しかない。脱脂粉乳については1年生か、2年生のときまで。最後の世代と言われて言う。

もう少しだけ、塩崎さんの記述を続ける。

 日本政府は大量に輸入することになった小麦を、なんとか国民に消費させようとする。栄養面では米に勝ると強調したり、パン食や麺食のキャンペーンを展開するなど、米が充分足りている農村部へも小麦粉食を励行した。

このとき、全国紙を使って、東北大学教授の弁として「米飯食は若死する」との発言を掲載し、農村部には厚生省(当時)が、キッチンカーを巡回して、パンやスパゲティを紹介していった。ちなみに実務を担ったのは「電通」さんである。

少なくとも「戦前から」のイメージがある、ラーメン、うどん、焼きそば、お好み焼きなどの「粉もの」、パンやケーキなども、街場に広がってたのは、実際には、戦後も1950年代以降のことだった。
それも、アメリカ合衆国政府を含む「お役所」の都合。プロパガンダの賜物だった。

戦前、街かどにあったのは、豆と餅の「甘味処」だったが、今はパン屋さんであり、ケーキ屋さんだ。

それも基本的にはアメリカの都合に拠る。そして、僕らは食文化を奪われ、食糧を輸入に頼るようになって、今日に至る。

あした、僕はどういう顔をしてパンを食べよう。
言われた通り、与えられたものを食べて、何も言わずに美味いという。

それでいいのかな。「美味い」と感じることからして
それ、プロガンダに呑まれちゃってるんじゃないのかな。
誰かに「私」がデザインされちゃってるんじゃないのかな。