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美大

昔々、僕が通ってた美大に、造形形態学という、造形の形態?…判ったような判らないような、ビミョーな名前の講座を持っている教授がいた(美大だから、それはそれ、学術的な裏付け云々より、彼の表現というか感性が導きだした言葉だったのかも)。

そんな教授が、ある日「社会モデル」について、こんな話しをしてくれた。

網戸

あのサッシなんかにはまってる網戸をイメージする。それから、その網戸をサッシから外して、床に寝かせる。そうすると、縦横に、横糸、縦糸が張られている四角形が連続する「網面」がある。

彼は、社会は、これに似てると。

彼曰く、僕ら一人一人は、この編み目が描く細かいグリッドのひとつひとつに収まりながら生きている(つまり、ハニカムな蜂の巣にいる蜂の子のような状態です)。ラジカルなアーティストだといっても、所詮は、この横糸、縦糸を、自分の腕を伸ばして、ぐぃーっと向こう側に押しやって、自分のいる空間を少し広げるくらいのことしかできない…そんなもんだ。

彼は、そういう。

彼の話しを聞きながら、僕の目の前や背後、左右に、1本、ピーンと張った糸が張られているような画を想像し、その糸を一生懸命、自分が向こう側へ押しやろうとしているイメージなんかを描くんだけど、凡なる若者には、まぁ、判ったような、判んないような…

でも、「ぐぃーっと向こう側」に押しやろうとするかどうか、その意思のあるなしっていうのは大きいんだろう。糸なんかそのままにしておいて、あらかじめ自分に与えられている領分。その中の居心地をよくすることだけに傾注するっていう志向もあるだろうから。

で。美大は、網戸の網の目に入ること自体を拒絶する人たちの実験場なのかもな、と。それも、ギャーギャー騒いで、そうするんじゃなくて、スーと抜けていっちゃうような感じで。

ゴキブリ飼ってるヤツがいたり、ずっと自動販売機と話しているヤツがいたり。

公募展で、作品Aが大賞か、それとも作品Bなのかと、審査員の先生方が口角泡を飛ばして議論してって、そんな場所じゃないんだろうな。とりわけアートとか芸術とかって専攻だとね。

そんなことを思ったな。