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目にはさやかに見えねども

今は亡き小沢昭一さんの著作「ぼくの浅草案内」(ちくま文庫/2001年)。

この本の中で、小沢昭一さんは、敗戦直後の下町にあって(オヤジ方の)わがご町内がいかに貴重な存在であったか、有難かったか、心情たっぷりに語っておられる。敗戦直後の時代の「焦土」以降を経験してきた東京人にとって、空焼け残ったご町内あたりは、珠玉のように貴重なものだったということなんだろうと。

(正確に言えば、うちのご町内、べたに「浅草」っていうより「浅草周辺」なんだけど。確かに風情はそれなりでね)

有難いことに、ご町内は、東京オリンピック前後の開発ブームは免れていたので、1961年生まれの僕でさえ、夫婦漫才の師匠や、レンズ磨きのおじさんたちが混在し、うちの隣はそろばん塾という、昔ながらのご町内を経験することができた。

でも、子どもの頃から、その時間と空間を当たり前のものとして過ごしてきた僕は、逆にその貴重性を殊更に意識することもなく、尊敬する小沢さんの、短いけれど、ひしひしと伝わってくる思いに触れて、ようやく、その有難さを理解したというのが正直なところ。
しかも、そうやってちゃんと認識できるようになる前に、わがご町内の「ご町内らしさ」は、バブルを前後して完全に消滅してしまった。銅ぶきの看板建築が次々になくなり、銭湯がなくなり、誰それが引っ越すだの、どっかにマンションを買ったのだのという話しが続き、あっという間に、雑居ビルとマンションの街になってしまった。

そのバブルの頃、たまたま、どっかの大学で、わがご町内の開発計画を耳にしたことがあるのですが、なんだか、理科の実験で解剖されるカエルの気持ちがわかったような気がした。先生の有難いのお話を聞きつつ、何がまちづくりだ、グランド・デザインだ、よそ者が何を言ってやがると思い…、すでに似たような仕事をしていた自分自身をも呪っていた。

(その開発計画は幸いにして実現しませんでしたが)

とにかく、再開発っていうのは空襲以上の破壊力を持つこともあるということです。しかも味方どうしの殺し合いみたいなもの。

一定の時間、ビジネスをすると、成功した人ほど東京に引き上げてしまうヨコハマとは違って、東京には、近代以降も、その土地に定着する、よき中間層が育ちつつあり、大震災や空襲などの風雪はあっても、それでも残る家もあり、街場の文化を洗練に導きつつあったと。

それを、1980年代末のバブル経済が空虚なコイン駐車場に変えていった…

なんと惜しいことか。

街文化の熟成には時間がかかる。イベントのようにお金をかければ「それなりに」というわけにはいかないもの。街かどに、その街文化が薫るようになるまでに、あっさりと数百年の時間が必要だったりする。その「悠久さ」を、一時的なお金儲けのために分断してしまうことは、過去の人々からも、未来の人々からも歓迎されないだろう。

いわゆる「徒花」だ。

可視できないからといって、そこに何もないわけではなく、歴史は、過去から未来へと確実に流れているもの。過去だって今に確実に生きている。ただ、目には彩に見えないだけなのだということ。

神宮の件だって、日本橋の件だって、同じこと。いっときの金儲けのために歴史を分断するような行為はしてはならないのだけれど。

ぢっと手を見る。