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「本を読む」文化

オヤジの家は、すでにじいちゃんが、後に大学になる高等専門学校卒だったし、長女の叔母が高等女学校、次女の叔母が上野の音楽学校、叔父貴も、戦後は大学になる高等工業専門学校だった。

だから家には「本」があった。「音楽」もあった。

(次女の叔母の連れ合いの叔父貴も芸大の先生だったから、美術書も豊富だった。アンディ・ウォーホール的な情報はなかったけれど)

親戚に歯医者の家系があって、僕が子どもの頃、彼らの家には、彼らのルーツとなる郷里から出てきて予備校生活を送る団塊に世代の若者がいた。広い家だったから楽器も弾き放題だし、レコードも聴き放題。つまり、そこにはPOPS系の雑誌も豊富だった。レッド・ツェッペリンやサイモン&ガーファンクルを初めて聴いたのは彼らの部屋だったと思う。

(初めてギターに触れたのも、ここだったかな)

つまり、オヤジの家には「本」や「文化」があった。

オヤジの工房に働くお兄ちゃんたちの部屋にも「本」があった。
彼らは「金の卵」として上京し「夜学」の高校に通っていた。同様に「夜学」の大学に通っている人もいた。

彼らは本を読んでいた。なんだか、遊びじゃない気がした。
愉しむというより、本を読んで勉強していた。

オフクロの家系の家には本がなく、ご近所でも「本」は滅多に見かけるものではなく、本を読んでいる人がいた記憶もない。当時高校生だった叔母も、オヤジの工房のお兄ちゃんたちとは異質な高校生だった。べつにわが家の手伝いに忙殺されている感じはなかったけれど。

本ばかりでなく、新聞を読んでいる人の記憶もない。ただただ「新聞紙」が「ものを包むもの」として活躍していた。

唯一、豆腐屋のお兄ちゃんが進学校に通い、後に大学に行くから、本を読んでいた。でもね、ご町内では完璧に「変わり者」呼ばわれで、子どもの目にも孤立していた。お兄ちゃんは、お父さんが早くに亡くなられて、お母さんの実家である豆腐屋さんに身を寄せた境遇だったので、町を出ることもかなわず、就職に失敗して亡くなられた。

オフクロの実家があるのはヨコハマ都心である。

見上げれば「港の見える丘公園」から山手の丘。海に向かっていけば、石原裕次郎氏が会員だった名門ヨットクラブがある。もちろん、山下公園も、中華街も、元町も、徒歩圏だ。

でも「本」を読む人はいなかった。

本牧もそうだったかな(僕が子どもの頃は大半が占領軍の住宅地だったけど)。元町の最寄り駅のJR石川町の周囲もそうだったし、中華街もそんな感じだったかな。

つまりね。

「本を読む人」が住む街の方が極小で「本を読まない人」が住む街の方が広大無辺だった。

「教養がある」がファッションになったのは、大正から昭和の初期のことだったという。裕福な農家の出身だが総領ではなかったので、上京して当時はそれだけでエリートだった「サラリーマン」になった人が、たとえば文学全集などをわが家に収めて「教養がある」を可視化しようとしたのが始まりなんだそうだ。

「家」を失って「学校を出た」だけが資産のデラシネだったからなんだろうな。生きていくための「柱」みたいなものが必要だったんだろう。

この「積読」が戦後の高度成長期に入って蔓延した。サラリーマンはまだ憧れだったし、1960年代の前半、大学の進学率は10%程度。高校生が充分に憧れの存在だった。

喫茶店で文庫本を読むふりをするだけで、モテる時代だったんだ。

僕らは、これから、高い確率で「闇市からのやり直し」を求められる。もう米の販売価格が昨年と比較して2倍だ。まだウクライナの戦争は終わらない。戦火は世界中のあちこちに広がっているのに日本円は当分弱含み。食料の自給率は30%台、エネルギーの自給率は10%台のこの国が、サプライチェーンを組めない。

僕らの暮らしは「食料」「エネルギー」という根底が揺るがされる。

そんな中で「本を読む」は、厚化粧を落としてスッピンに戻る。

でも、ただそれだけのことだ。

ラジオがラジオとして今も愛され、「統制」されつつあるマスメディアの中でジャーナリズムとしても独特の光を放ち始めている。
エアコン全盛時代に今も扇風機は重宝されている。

「紙の本」は、まさにラジオであり扇風機だ。

無くなるのは「積読」だけだ。

むしろ「本を読む」文化が成熟に向かっているのかもしれない。

僕はそう思いながら本に囲まれている。