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オーラを与える

2013年の初版「毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗の間」(河出書房新社)。これは上野千鶴子さん、信田さよ子さん、北原みのりさんの鼎談に、それぞれの書き下ろし部分を加えてまとめられた本です。

上野さんの書き下ろし部分に、こんな一文があります。

メディアがつくる「偶像」には、ブランドの相乗効果がある。すでにメディアでブランドになったパーソナリティが、誰かをほめそやすことで新たなブランドが生まれる。壇蜜をほめそやす男たち、みうらじゅん、リリー・フランキー、福山雅治などが壇蜜にオーラを与える。「王様はハダカだ」とだれも口にしないかぎり、たとえその中心が「空虚」であったとしても、壇蜜という記号は輝く。

ああ、安倍さんか… そう思いました。

しかも「王様はハダカだ」とだれも口にしないという状態。すでにメディアでブランドになったパーソナリティが、誰かをほめそやすことを人工的に創出しようとしている感じ…

これを「積極的に」というより、自信のなさや世間体、「みんな」から置いていかれるのではないかという恐怖感などから、鈍く追随する人がいて、研究者がいうように、いつしか国中を覆うような「空気」が醸成されていく。

たぶん、前の大戦の時もそうだったのでしょう。だから「積極性」のない分、知らぬ間に戦争が現実になり、空襲があって、自分の息子たちは実際に戦場から帰ってこなかった。

でも、僕の記憶では、戦争の主犯はA級戦犯であり、軍部で、我々は騙されたんだ。食べ物がなかった…当時を大人として生きた人たちの話しは、そんなところでまとめられていた。

でも、

僕は、あの頃の大人たちが「王様はハダカだ」とだれも口にしない状況に自分たちがどう関与していたのか、自分が後ろめたくなるくらいには自覚していたんじゃないかと思っています。

(だから、話をするのを避けたんでしょう。共犯者になってしまうから)

結果、街場では、前の敗戦を上手く反省できずに高度成長期からバブルを浮かれ、また「闇市からのやり直し」を繰り返すことになるかもしれない(今度は経済戦争かもしれないけれど)。

また、やられてしまうかもしれないわけです。

今度こそは、もう直ぐ還暦になる僕の関与を明確にしなければならないでしょう。そうでなければ3度目を繰り返すことになる。これまでをフリーランスに過ごしてきましたから、仕事でもライフスタイルでも「フツウ」や「みんな」とは距離をとって生きてきたつもりでいます。でも、それでも小さい僕が社会にできたことは微細なことです。できなかったことの方が圧倒的に多いし、大きい。すでにメディアでブランドになったパーソナリティが、誰かをほめそやすことには無縁で過ごすことができていたとしても「王様はハダカだ」とだれも口にしない状況には、無意識のうちに加担してきたのかもしれない。

まずは「これから」の時代をサバイバルするための準備ですが、忘れてしまわないうちに振り返って反芻しておかなくてはと思っています。

だれも口にしない状況はなぜできたのか。僕はどう関与してきたのか。後回しにせず、走りながら考えたいと思っています。


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