見出し画像

等身大の街

80年代から90年代の初め、僕は、ずっと机の上にあった「模型」が等身大の現実になり、しかも、その現実が寸分たがわず「模型どおり」になっていく経過に参加していた。都心再開発事業だ。

そして急速に醒めていった。まだ20歳代だった。

完全に距離を置くという選択もあったんだろうが、当時の僕は、この高層の街に「等身大の温かみ」を加えることはできないかと考えた。

まぁ、若かったんだ。

でも、以来、無駄な抵抗をずっと続けている。ただ、再開発に関わり始めて四半世紀以上。
舞台裏を見てきただけに、高層の街のフィクションには、さらに押しつぶされる感じを年々強くしてきている。

で。

最近の僕は「低層の街」を改めて見つめ直している。

「低層の街」というのは、二階建てから、せいぜい五階建て程度の、商店と住宅が至近に混在しているような街。「面的」な開発の手が入っておらず、自然に「街」になっていったというようなところ。もう東京の下町は厳しいけれど、案外、東急各線の沿線にはそういう街が残っている。

そういう街を参考にしながら都市計画的な「プランを描く」のではなく、形としては何もない、多様な人々が出会う交差点をつくりたいと思っている。

誰かが描いたプランで、ある街を染め上げてしまう…乱暴だ。それよりも、それぞれの小さい「個性」がハーモニーを奏でるように街を合唱する…ときどきは歌が下手な人がいるかもしれないけれど、それがまた「かわいらしさ」になる…故に、一人ひとりの「私立の公」を頼りに「まち」ができていくのを楽しむ。

喫茶店、cafeやBarのカウンターなのかな。アトリウムにカフェ・キオスクがあって、テーブルが散らしてある…みたいな空間でもいい。少なくとも「景観」から入るのではなく、等身大、体感できる街を大切にしたい。

今は亡くなってしまった横浜中華街の華僑の重鎮が「決め事で縛るより、みんなが真似したくなるようなお店をつくったらいいのよ」と言っていたのを思い出す。その後の中華街は逆を行きましたが、だから楼門はないけれど、池袋のチャイナタウンの方が、味わいでは、はるかに上をいっているように思う。

面的なプランで染め上げるのでもなく、条例で縛ることもない街の「空の青さと広さ」、「街」という経験を大切にしたいと思っている。

この記事が参加している募集

#とは

57,813件