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この国の「文化」として

Twitter(X)のタイムラインに見つけた一説。

「アートと工芸の間にあって、デザインとも言い切れないし、いわゆる工芸品とも違う。アートのように飾るものだけど、手に触れることもできる、もっと生活の中に入っているもの。」   

柚木沙弥郎・熱田千鶴著『柚木沙弥郎のことば』グラフィック社より

そもそも、上流社会(ハイ・カルチャー)を向いている、しかも、幕末〜明治以降の、新参の外来文化に拠る見方であるところの「アート(art)」を「唯一無二で最高峰」みたいな位置付けに置いちゃうから、わからなくなっちゃういんじゃないかな。

「アート(Art)」は欧州でも街場のものじゃないんだ。長く続いた貴族社会があって、街場からすれば「あの生活感がない」ライフスタイルがあって、専属の絵描きさんなり彫刻家さんなりがいた、ああいう感じを勃興してきたブルジョアが、ステイタス・シンボルとして模倣しようとした…

そのハイ・カルチャーが愛した芸術が「アート(Art)」だ。

フランスの印象派の画家たちが、そういう感じを脱して街場に出ようとした。そういう彼らに、大きな影響を与えたのが「浮世絵」だ。

この国の場合、欧州に比較して、藤原道長的「貴族」たちが力を失うのが200年は早かった。下々が勃興して「公共」までコントロール下に置いた。カネの力によるところまでは欧州のブルジョアと同じだけれど「公共」との距離感が違った。欧州のブルジョアはあくまでも「私」の域を出なかった。

もちろん、素人だから最初は混乱した。それが戦国時代だ。でも、やがて、織田信長、豊臣秀吉の時代を経て、江戸幕府には、260年間、全国区の安定が街場にさえ、もたらされた。欧州では、まだまだ飢饉と戦乱の最中の状況にあったのに。

この街場の安寧が街場の文化を充実させた。目標にされた上流でさえ、武士たちだったから「成り上がり者」だ。「源氏物語」の世界を知らない人たちだ。信長や秀吉が「茶道」を重んじたのは、彼らに「和歌」を詠ずる素養がなかったので、「名物」とされる「物」を所有するだけでステイタスをシンボライズすることができるからだったとされる。

でも、だからこそ、街場の人々の自己流の文化が花開いた。江戸時代になれば街場が戦乱で荒廃することもなく、芸術家だけでなく、受け手だって作品を購入するゆとりを持った。

彼らの文化を「ハイ・カルチャー」に対して「ロウ・カルチャー」という。

もちろん街場に庶民にミケランジェロに彫刻を発注できるほどの財力ある個人が存在するわけではない。だから、作品をみんなでシェアする「量産型の作品」が発達した、そのうちのひとつが版画である「浮世絵」だ。

でも「量産型」だからといって「表現」の質に限界があるわけではない。だから北斎の「神奈川沖浪裏」は、欧州で「great wave」と評価されるのだろう。ゴッホは日本人になりたがった。

欧州の「Design(デザイン)」は、街場の道具たちの「量産」と共に発達した。「量産」を設計し、「意匠」や「装飾」は「量産型の作品」を呼び込むことになる。ブルジョアよりさらに小型の市民にも、富が分配されるようになったビクトリア朝以降のことと言われる。街場の文化だ。

だから「Design(デザイン)」は、日本文化と相性がいい。

アートのように飾るものだけど、手に触れることもできる。

これ、量産型アートのことだ。日本で言えば「浮世絵」だけでなく、蒔絵、陶芸などもこれにあたる。この国では、もともとハイ・カルチャーのものである「仏像」でさえ、どんどん小型化していって、実際に、人々の願いで磨耗してしまうほど「手で触れることができる」ものになっていった。街場が豊かだったんだろうな。

そして

アートと工芸の間にあって、デザインとも言い切れないし、いわゆる工芸品とも違う。

この文中にある「アート」は、前述した欧州の「ハイ・カルチャー」に由来するものだろう。「工芸」は、この国の伝統の系譜にあるものだが、明治政府の過度な欧化政策以降は「正当な美術品としては認めない」とされたものだ。

(欧米由来のものが、クラッシーな人々の真っ当な文化で、それ以外は街場の「大衆文化」とされた)

デザインとも言い切れないし」は、指している作品が「道具」ではなかったからだろう。たぶん「大量生産品」でもなかった。

(でも、この国の街場はレンブラント工房のような「作品制作の集団生産」を早いうちから確立し、「木版画」に象徴されるように「少産」型の街場芸術を発達させていた)

いわゆる工芸品とも違う」は、いくら政府がオフィシャルから外しても、工芸品には、中世以来の「茶道」に近接したステイタス・シンボルとしての役割もあって、そうした作品としても違和感があるという意味だろう。

いずれにしても、特に江戸時代以降は、宮廷画家より街場の絵師…というのが、この国の特徴だ。しかも、国際的にみてもかなりのクオリティだ。

アメリカ合衆国は中世以前の歴史を持たないから、欧州の「ハイ・カルチャー」に固執すると、どうしても薄っぺらなものになってしまう(それは、明治以降のこの国のオフィシャル・アートも同じかもしれないけれど)。
だからこそ、かの国はストリート・アートのステイタスを、国策として上げようとする。でも、やっぱりバンクシーを産み出すことはできずにいる。

(無い歴史は無いからだろう)

印象派以降、欧州でさえ「貴族文化が文化である」という時代は終わった。エリザベス女王がビートルズのコンサートに行く感じ。

だからね。僕らも、もっと「この国の宝」を街場に探しに出た方がいい。数千円のこけしを「工芸品」とは呼ばないかもしれないが、そうした作品にこそ、この国の「美」の真骨頂があるのかもしれない。

否。あるな。

街場の庶民に等身大の作品にこし、この国の「美しい」は宿り、街場の作品だからこそ、作法にとらわれない自由な表現に富んでいる。

見過ごせにはできない。