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ニッチ/自営

結局、消費材を選択するマスカルチャーに育ってきて、それで「デザインをする」とか「表現をする」とか、そういうことって、かなり至難なんだと思う。「表現」には「線をハンドリングできる」のレベルの経験と「手」が必要なんだけど、大量に生産された消費材って、こうしたディティールは、たいてい省略されてしまっている。

(漫画だって、描くとなると「線をハンドリングできる」のレベルの経験と「手」が必要になってくる。印刷物になった後の漫画と同じレベルじゃダメなんだ)

だから、生まれついた「家」にそういう蓄積があるか、その人個人に理屈を超越した「才能」があるか。そんな感じでないと。

デザイナーって職業名詞なんだけど、会社に勤めてCADやAdobeなソフトを繰る流れ作業の工員さんみたいな感じになっちゃうんだろう。自分はアーティストのつもりでも受け手のニーズがなかったりね。

(「歌」なんてホントに「才能」オンリーだなって思う。テクニック的な意味での上手い下手ってあんまり関係ないんだ。多くの人にとって魅力的な歌かどうか。それが全て。テクニックな部分が活かせるなら凡才でも努力で食ってくこともできるんだろうけれど)

残酷だなと思うけれど、現実、そうじゃないかな。

そこにAIも登場すれば、Youtubeもある。たいていの楽器演奏はDTMでまかなえるし、ピアノを習いにゆくんだったらYoutubeが入門映像探せばいいから、スタジオミュージシャン、ピアノ教師っていうテクニック主体の人が活躍できる場は加速度的に狭まっている。

しかもApple Musicは、メジャーもマイナーも、国境もシームレスにして世界中の音楽を紹介してくれる。高度成長期前半ぐらいまでは「新宿一の唄い手」っていう生き方があったんだろうけれど、そういう感じも、どんどん不可能になっていくんだろう。

「家」か。「才能」か。

バリアフリーがなくなり「境」が溶けちゃうと、ハンディなしの競争だから、結果は酷いことになる。

僕らはこういう感じを覚悟しておく必要があるんだろう。

でもね。マスなマーケットと違って、ニッチな市場になると、居場所は案外たくさんあるんだ。全体からみれば1%以下の市場でも、その「1%以下」を、この国の人口に掛け算してみればいい。世界に掛け算でもいい。

ニッチに徹底すれば、稚拙なデザインでも、わかりにくい表現でも、それでいいって言ってくれる人との出会いはあるかもしれないよ。

僕もね。変わり者だから生活圏で話が合う人との出会いはほとんどない。うちの奥さんとの出会いが奇跡みたいなもんでね。だから出会いは、ほとんどSNS。この20年、仕事はSNSで出会った人と組んでやってる。イベントやったり、まちづくり政策提案とか検討調査とか。でみね。ドアtoドアで「まちづくり、いりませんか?」って売り歩くわけにもいかないジャンルで、40年以上、フリーランスで食ってきたことは事実。案外、できるもんなんだ。

僕の場合、美大も「観衆論」だから「描く」方じゃないし、大学院は「公共政策」だからね。そもそも自分がレアな存在。話が合う人自体が少なそうだよね。

でもね。小さくならやっていける。

昔の、商店街の喫茶店ぐらいの市場規模でやっていければなって思っている。自営だから、いわゆる「転職」なノウハウじゃないんだけど。もう「会社員」無理だし。