コミュニケーション
僕は、「言ってくれなきゃ解らないじゃない」などといわれると「言わなきゃ解んない人には、言っても解らないから、言わない」と言って、友人などからウケをとる。
でも、これ、スケッチとしては、案外、正確なんじゃないかと思っている。
人間関係において、わが国は永く「お互いに察し合う」文化でやってきた。だから「言葉にされたら終わり」みたいな文化があって、正確に「察する」能力が求められた。
だから、相手に、言葉での明確な回答を求めて尋ねてもダメ。今は、そういうコミュニケーションのあり方は過去のもの。今日的には、ちゃんと言わないことの方が確かに失礼ということがある。
でも今は「聞いてないよ」「言ってくれなきゃわからない」
かつてNHK総合で「清左衛門 残日録」という時代劇が放送されていたことがある。最初の放送は1993年。藤沢周平さんの「三屋清左衛門残日録」が原作。
現在も、CSなどで同じ原作のものが製作されているけれど、今という時代に生きている僕らに理解できるようにつくるので、そこに出てくる人々のやりとりや仕草なんかも、今様に焼き直してある。
NHK版の方は、セリフを追っているだけでは物語を掌握することが困難。
たとえば、こんな感じ。
主人公の家に友人が訪ねてくる。お嫁さんが羊羹を出して談笑している…そこへ主人公が帰ってくる。友人は言う。「ああ羊羹、美味かった。美味かった」で、湯呑みの蓋を閉める…、このことで友人は、お嫁さんに「ちょっと席を外してくれ、当分、ここへは来ないでくれ」ということを言っている。で、いつもはそういうことがないから、ちょっと深刻な話しなんだなーと思いながらお嫁さんも下がっていく。この間、直接的な言語情報の交換一切無し…
実は、この友人は、主人公を斬ろうとしている人物がいることを知っている。でも、そういうことも間接的な表現で伝える。
「最近どうだ」「ご家老が何かあったら、何でも相談に乗ると言ってたぞ」とそれだけ。でもご家老の名前が上がったので、主人公も、深刻な心配をしてくれているのだなと察する。そもそもこの時間に、忙しい友人が待っているのがおかしいと思っているし…友人が心当たりがあるかと尋ねても「いいや」という。友人にいらぬ心配をかけぬため…
このシーン、いったい何のことやら、解らない人もたくさん居るんじゃないかと心配になった。ちなみに友人が訪ねてきたのは、ご家老の下命なんだけど、家老自身が来なかったり、主人公を呼び出さないのは、事を荒立てたりしないため…すべてが、戦後の僕らには、まだるっこしい。でも、NHK版の「清左衛門 残日録」は一事が万事、こんな感じ。
他者の存在を慮る…そこからしか何事も始まらない、始めない。自己主張のぶつかり合いのような文化の対極にあるような、人と人との関係のつくり方。確かに面倒臭そうだけど、今、世界に有用視されはじめた「日本性」の原点がここにあるというのは事実。こうしたことが庶民の日常にも深く根ざしていたからこそ、日本のサブ・カルチャーは、今、キラキラと光り輝いている…小津映画に描かれている人間関係にも繋がっていることだ。
だから、これからはどうなんだろう…この国も自己主張のぶつかり合いのような文化に組み入れられてきて久しく…
今や「何かあったら何でも言って。できることがあったらするから」と言ってる人がスタンダード。でも、これって、自分をして「言ってこなきゃ何にもしないし、できることしかしないから」と言ってることの裏返し。そういうころに無自覚な時代だし、こういわれた相手も「そなのか、ありがたいな」と、字面で聞いて、笑顔でお礼をいってる時代だ。
欧州の友人などは、そうではない「残日録」な日本を評価してくれるけど、肝心の「わが国」ではね。
今はもう、僕らが気がついていないだけで、「日本的な」の残日録を綴っている毎日なのかもしれない。
ぢっと手を見る。