そんなに易しい状況にはない
考えてみれば当然のことなんだけど
今、元気がない、これからも、さらに元気がなくなっていきそうだという「まち」を持ち上げようとするなら、よほどアグレッシブで、創造力に富んだ人を呼べなきゃダメなんだろうなと思っている。
だから「地域おこし協力隊」といった選択肢が明確になってから、その選択肢を選ぶ(応募する)ような人で、現状の地域を持ちあげようというのは、よほどの「至難」だと思う。
できたとしても「地域」に持続的にエコーするものではないイベントや店舗の経営までで、超高齢化、若者の流出に応えるような事業の実現と継続には無力だと思う。だって「選択肢が与えられてから選択肢を選ぶ」経験しかなくて、自ら「選択肢」を創るような経験には乏しいだろうから。
例えば、多少はネットに長けた人が「地域の日常」を「配信」したとしても「地域の日常」の切り取り方がステレオタイプだったとしたらどうしよう。
そうしたら、あまたの発信源がある時代の「凡百」に埋もれていくだけではないだろうか。逆にアンディ・ウォーホールのように、珍しくもなんともなかった「量産品」を「アート」の領域に押し上げる力は、誰しもに備わっているものではない。
じゃあ、どうする。
テレビや冷蔵庫を各家庭に。自家用車を全世帯に。
そうやって「品物」を「均質に平等に」に、全世帯に実現していくのと違って「地域の個性を際立たせる」は、各地域にオートクチュールなこと。その上で「地域という情報」を「上手く伝わるようにデザイン」する力量も要求される。
よほどのタレントが必要だろうな。少なくとも「フツウ」の人ではない。
「一億総中流」の時代には、何事も「均一化」して「善」だったので、個性化はリクエスト外。だからこそ、そこに「才能」を持っている人が埋もれている可能性はあるけれど、やっぱり、それだって「才能」なんだろうな。「フツウ」じゃない。
たぶん。大成功するところ、大失敗するところ、吉凶は明確に二極化するんだろう。可視化されやすいのは、恐らく「地域おこし協力隊」の活動と、その結果な何が起こったか、だろう。たいていが「大失敗」の事例となる。
僕が想像するに「大成功」の事例は、生え抜きの人に、その地域の情報を発信する表現力やデザイン力があった、幸運な地域にとどまるのではないかと思っている。
プロフェッショナルな「まちづくり/まち起こし」のコンサルタントも「訪れる人」の視点しか持ち合わせてはいない。SNSがある時代に欲しがられる「情報」は、その地域に子どもの頃からくから暮らしてきた人々にしか見つけられない。
だから「生え抜きの人に、その地域の情報を発信する表現力やデザイン力があるなんだろうな。コストの面からもプロフェッショナルがチームを組むわけにはいかないんだろうし。
とにかく「既存の選択肢から選ぶ」を常としている人には難しい仕事だ。思ってもみなかったことの連続になるだろう。
(場合によっては数十年に及ぶ長期にわたっての戦略を描くのにも慣れていないはず)
地域はそんなに易しい状況にはない。タイムマシーンでもあれば別だけれど。
恐らく成就する前に疲弊てしまうだろう。