見出し画像

classic

週刊文春9月28日号(2023年)、いつもの「新 家の履歴書」、冒頭に、こんな記述があった。語り手は俳優の白川和子さんだ。

私の父は、とにかく真面目で厳しい人でね。テレビで見るのはNHKだけ。音楽もクラシックしか聞かない。教育熱心で「深みのある人間になれ」というのが口癖でした。

今はちょっと違うかもしれなけれど、僕ら(僕は1961年生まれ)くらいまでは「NHK/クラシック/教育(学校教育)熱心」は、ある家庭像を描写するのに使用された常套句というか、三種の神器みたいなもの。お父さんか、お母さんか、あるいは、その両方が厳格で、息子や娘を囲い込んじゃうような家庭を想定する。男子だったらお父さんに、そうとう気を遣ってしまうというか、黒電話時代だったら、カノジョに電話をかけるのが怖いような家庭…

そういうのをイメージしてしまう。

「クラシック」は「階級」を表すラテン語「class(クラス)」に由来する。特に産業革命のとき、お金で勃興する市民が現れ、彼らが、彼らから見た上位層にあたる貴族の生活文化に憧れた。だから「クラシック」は「階級」。
転じて「最高クラスの」「一流の」という意味もあるけれど、このことが彼らの「憧れ」を象徴している感じ。

明治政府の欧化政策が、理由も気にせず、たただ先進文化として欧米から「クラシック」を移入し、わが国固有の文化を、その下に置いた。もちろん「学校教育」もこれを踏襲、ここに教育熱心だと音楽はクラシックという構図ができあがった。

(絵画なら西洋絵画。印象派は日本の浮世絵が描いた対象に大きな影響を受けているのに、欧州から来た絵画だから「浮世絵の方が下」みたいな。ちなみに、日本人自らが「日本画」っていうのもチグハグな感じがするけれど、岡倉天心たちが西洋絵画偏重の機運に逆らって、こう言い始めたから。そのくらい、明治政府の欧化政策は、特に文化政策において、性急で、竹に木を継ぐようなものだった)

だから「NHK/クラシック/教育(学校教育)熱心」は、国家に従順だという姿勢だともいえる。心から「国家」を信じているというか。

白川和子さんは「団塊の世代」だから戦後の生まれ。でも、ご両親は戦時体制の中、長い時間を過ごしきたわけだから「臣民」ぽい体質が残っていたのかもしれない。お父さんも「家長」っぽいし。

それにしても不幸な出会い方をしちゃったなって思う。

もとよりクラシック音楽に罪はないし、彼らに「classic」なんて名前がつけられちゃうんだって迷惑なのかもしれない。

僕はね。始め直せればって思ってる。
街場には街場のクラシックがあったっていいんじゃないかって。

ウィーンのニューイヤー・コンサートは、ブルジョアっぽくない市民がつくったっていわれているけど、確かに、あのコンサートは、けっこうブレーキーでファンキーだ。
あの延長線上にあって、街にいるクラシック音楽。ステイタスを象徴するお作法じゃなくて、楽しんで聴けるやつ。

反響板なんかなくてもいいし、ストリートでも。

音楽を「階級」なんてものから解放してやるんだ。