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美術やアート

僕は芸術学科卒で、芸術評論で小さいながら受賞経験もある。

でもね。ずっと喉元に魚の小骨が引っかかった状態が続いていた。「唐衣 着つつ慣れにし妻しあれば」の逆だ。

なんか違和感がある。無論「アート」についてだ。 

例えば、北斎の「神奈川沖浪裏」を「アート」ってカテゴライズされるとき。この国に伝来の技法に則った絵画より「油画」に「アートの主流がある」かのような考え方に出会ったとき。

(考えてみれば、この国の伝統に則った技法で描かれた絵画を、日本人自ら「日本画」っていうのも妙な感じがする。フランスの人が印象派の絵画を「フランス画」とはいわないだろうな、と)

明らかに「アート」って外来語だ。最初は「美術」だった。
この言葉は西周(にし あまね)が1870年代に英語の「fine arts」の訳語として提案し、日本政府がウィーン万博(1873:明治6年)に参加するにあたり、ドイツ語の「Kunstgewerbe 」「 Bildende Kunst 」の訳語としてもあてられて定着したものだ。

これはこれでいいのだが、疑問なのは「美術」が定着して以降、舶来の作品ばかりが、この国のオフィシャルになり、僕が受けてきた「美術教育」では、「美術」といえば「舶来」がメイン・カルチャーで、浮世絵などでさえサブ・カルチャーだったことだ。
のちに欧米の人たちに出会うと、むしろ、彼らの方が、この国では「工芸品」にカウントされがちな陶芸、蒔絵なども「アート」とカウントして話をしてくれたが、特に学校教育では美術の歴史といえば「西洋(特に欧州の)美術史」だった。ラスコーの洞窟壁画から学ぶ。

だからこそ、この国の美術はセパレートになった。

音楽で言えば「クラシック」は「鑑賞する」で順接だが、「演歌」を「鑑賞する」には違和感がある。ふたつの潮流があり、一方は「鑑賞」させていただく対象…そんな感じ。

いったい、この国の「美術」や「アート」は、学校で教わって「美術」や「アート」でいいのか。僕らと「美術」や「アート」の関係とは?

美術館の中にあるアート作品は、たいていの場合、入館料を支払って観たい人が観る。ところが路傍にある「パブリック・アート」については受け手と「アート作品」の裸の関係を垣間見ることができる。僕は写真のような光景を横目に見ながら、僕らと「美術」や「アート」の関係って何…って思ってしまう。

サブ・カルチャーが「街場の人々」にも浸透しているのは、それが、この国に由来し、長い歴史を経て熟成し、人々に浸透していった文化だからだろう。それに比較すれば、明治以降の「美術」は、政府主導で「街場」に強制されていったものでもある。

「パブリック・アート作品」は、任意がなくとも街場の人々の目に触れる「パブリック」な空間に設置される。でも、たいていは、メイン・カルチャーに認証された「専門家」によって選定される。

「なぜ、ここに、この作品」

芸術学科を卒業した僕でさえ理解に苦しむ作品を、公費で、専門家ではない街場の人々の眼前に展示される。

これ、気にしなくてもいいのかな。

「サブ・カルチャー=漫画やアニメ、ゲーム」というわけではない。政府や学校がオフィシャルに「メイン・カルチャー」と認めないカルチャーのすべてが「サブ・カルチャー」だ。
しかも、この国の場合、明治に入るとき、「メイン・カルチャー」は「欧米由来」に舵を切り、それまでの「日本文化」を端っこに置いた。でも、一千年以上の時間をかけて、じょじょに人々の心に浸透していった「街場の文化」の系譜が、簡単に消え去るものではなかった。

そして今も、この国の文化は「二重露出」のような面妖な状況に置かれている。焦点が定まらないのだ。「海外」から評価されるのは、むしろ「サブ・カルチャー」の方だし。

(印象派の画家たちに大きな影響を与えたのも北斎たち、街場の絵師たちだし、マイセンの焼き物は柿右衛門のコピー、マリーアントワネットは蒔絵の蒐集家として知られ、「屏風」も欧州市場では高額商品、近年、秀吉の大阪城が描かれた屏風がオーストリアの古城で発見されるなど、その評価も、きのうやきょうのものではない)

…というわけで

あるときから、僕は「メイン・カルチャー」と「サブ・カルチャー」を反転させて考えてみることにした。

そうしたら小骨は取れたのである。

「サブカル」と省略型でいわれると、なにやらアキバでクール・ジャパンなイメージに囲い込まれてしまいそうだが、アニメやゲームばかりでなく、明治以降の政府がオフィシャルと認めてこなかった、すべての文化がサブ・カルチャーである。つまり、旧くから、この国に流れてきた文化の系譜に属する「街場の文化」だ。

柳宗悦の「民藝運動」。

手仕事によって生み出された「日常の生活道具」から美を見出そうとする運動。「民藝」とは「民衆的工藝」の略語だ。だから「用の美」ともいう。

でもね。

「美を見出そうとする」の「美」がね。アートや美術といった視座からの「美」だったら嫌だな、と思う。

「街場の美」は「街場の視座」からのそれでいい。それでこそ、僕らの美しいだし、「街場の」は、非の打ちどころのない「美しい」より「かわいらしい」かもしれない。

いずれにしても、学校の美術の時間に教えられる「美術」だけが「美術」じゃないし「アート」じゃない。

そうじゃない美術やアートが粗略に扱われすぎている。少なくとも欧米の評価は高いのに。

「明治以来」を卒業した方がいいのは、何も「政治」や「公共政策」のあり方」だけではないんだ。