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「ART」は、鑑賞し身につけるもの?

「ART」の語源。
ギリシャ語の「τέχνη (テクニー)」。
その訳語であるところのラテン語の「ars」

もちもとは、もっと「テクニック」っぽい意味の言葉だったのかな。

この言葉、人の手でつくらられる(行われる)もの全般を指していた。
だから、かつては医療技術とか、土木や建築の技術などが「ART」という言葉が指し示す範囲に入っていた。
「リベラルアーツ(Liberal Arts)」の「Arts」は「それぞれの手法」ほどの意味だそうだけど、「リベラルアーツ」も「一般教養」を指す言葉でギリシア由来だそうだから、「ART」も、もともとは、音楽や美術など芸術方面に限ったことを指すものではなく、人の文化、文化を具現化するテクニック全般を指す言葉だったんだろう。

18世紀の欧州

その頃の欧州(アメリカ)は革命の季節。フランス革命にアメリカ独立戦争といった感じ。つまり日本でいうところの「下剋上」な感じ。王侯貴族と僧侶が占めていたところに「市民」が割って入っていった。

で、割って入った市民の多くが王侯貴族や僧侶の生活文化を真似しようとした。王侯貴族や僧侶の方でも、彼らを認めざるを得ない状況に追い込まれていて、だからこそ、これから彼らと付き合っていく上で、服装では市民なんだか、そのへんの庶民なんだか区別がつきにくいから、なんとかしなければという話し合いが行われていた…という記録が残っている。

そのくらいだから「奨励する」までは行かなくとも市民が、王侯貴族や僧侶の生活文化を真似する「黙認」はしたし、非公式には教えもした。わが国でいえば、武士の台頭の後、食えなくなった「お公家さん」が、祇園あたりの遊び女に和歌などを伝授していたという感じに似ている。

「Fine Art」は、勃興してきた市民の視線の先にあった王侯貴族や僧侶たちの生活文化のことで、だから音楽や美術、工芸など、芸術方面に特化したものとして捉えられた。「Fine Art」の「Fine」は「上流階級の」ほどの意味で、街場の「大衆芸術」とは対極にあるものとしてとらえられた。

皮肉なことに、自分たちが「大衆」出身でなければ「音楽や美術、工芸など、芸術方面」という考え方も生まれなかったということだ。
やがて、街場でも「音楽や美術、工芸など、芸術方面といえば「Fine Art」という見方が支配的になり「Fine Art」から「Fine」がとれて「ART」が「芸術」全般の代名詞になった。

「ART」は「下品」「上品」でいえば「上品」なもの。その、向こうに王侯貴族や僧侶たち、上流の暮らしぶりを見据えていた。

(多くの場合「美しい」かどうかとは無縁だったかな。それより「ステイタス・シンボルだった)

だから、ちゃんと席に座って、大人しく静かに「鑑賞する」のが「ART」。鑑賞しないで、本音で楽しむのが「大衆芸術」。そういうわけで「演歌」は鑑賞しない。J-POPも鑑賞しない。客席の雰囲気が違う。
…というわけで、葉加瀬太郎さんは藝大を卒業されているが「ART」の人ではない。北斎たち江戸の浮世絵師たちは欧州では「ART」として評価された。でも、この国では、あくまでも、街場の「大衆芸術」の人。イラストレーターみたいなものだった。

ところが、1963年にロンドンのプリンス・オヴ・ウェールズ劇場で行われたロイヤル・ヴァラエティ・ショーに、ビートリズが出演。エリザベス皇太后、マーガレット王女、スノードン卿も出席・出演したあたりで話がややこしくなってきた。市民より上のエスタブリッシュが「大衆文化」を公認する格好になった。

(そもそも「下品」を気にするのは、勃興してきた市民だったんだけど、王侯貴族が「気にしない」ことが可視化されてしまったわけだ)

貴族のいない国=アメリカ合衆国では、さらに「ART」のブレイク・スルーは進んだ。

1960年代には大量生産品をモチーフにしたアンディ・ウォーホールが登場し、1980年代には、キース・ヘリングやジャン=ミシェル・バスキアスのように、地下鉄、スラム街の壁へのペインティングから「ART」として評価されれるようになった者も現れた。

でも、第二次大戦を第一義的な戦勝国のうちに終え、「西側」といわれる国々の盟主となったアメリカの文化を表立って笑う者などいない。むしろ、アメリカの「ART」は世界を席巻した。ビートルズの音楽のように。

現在型に生きている僕らには、逆にぴんとこないかもしれないけれど、少なくとも「ART」は、このあたりで「階級」からは解放された。

でも、あいかわらず「ART」が、人々の上昇志向とともにあることは変わらなかった。

こういう感じを、「上の階級」を目指し、そこに辿り着いた証としての「ステイタス・シンボル」として「生活を飾り立ててゆこうとするから」ということから「ハイ・カルチャー」ともいうのだけれど、ホントは、偉くなっても、お金持ちになっても、僕ら街場の人間は「変わらず街場の文化で」っていう方がカッコいいんだろう。

もちろん、一部にはそういう人もいる。

でも、依然として「ART」はステイタスシンボルで、だからこそ「上流への入り口」としての「お作法」で、先生に見方を教わり「これが名作」とされるものを憶える。だから、一旦、作品が美術館の外に出てしまったり、学校で教わった「ART」と作風に距離があると、簡単に無視されてしまったりもする。…というわけで、未だに、自分の見方や、お気に入りの作品をみつけることができていない人が多いんじゃないかな、とも思う。

いつになったら「ART」といえば「鑑賞し、身につけるもの」という状況を卒業できるだろう。

まだ、しばらく時間はかかるかな。

美術館に収蔵されている作品も、ただの作品で、クラシック音楽も演歌と同じ音楽なんだけどな。

まだまだ、鑑賞させていただくもので、ステイタス・シンボルなんだ。