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【論考要約+和訳】”ホストメリ空港の戦い”(by Liam Collins, Michael Kofman & John Spencer)

以下は、「War on the Rocks」ウェブサイト上で2023年8月10日に発表された「ホストメリ空港の戦い:キーウでのロシアの敗北における重要な瞬間」(“THE BATTLE OF HOSTOMEL AIRPORT: A KEY MOMENT IN RUSSIA’S DEFEAT IN KYIV”, by Liam Collins, Michael Kofman & John Spencer)の内容紹介になります。著者に関して簡単な紹介をすると、リアム・コリンズ氏は米軍退役大佐。特殊部隊に関わっていた人物で、2016〜18年の期間、ウクライナ軍顧問を務めていました。マイケル・コフマン氏はロシア軍事専門家として著名な人物。ジョン・スペンサー氏は米国退役軍人で歩兵戦闘の専門家として知られています。

なお、この「ホストメリ空港の戦い」を紹介するに際して、開戦時の状況や戦闘の進捗を記述した箇所はその内容を要約して示し、結論部(The Aftermath and Lessons Learned)は日本語訳を示すかたちでまとめていきます。

はじめに

ホストメリ空港はウクライナの首都キーウ北西外周部に位置し、首都中心部から12マイル(19km強)しか離れていない。2022年2月24日、ウクライナへの全面的軍事侵攻を開始したロシアは、その日の午前中に空挺部隊をこの空港に送り込み、迅速な占拠と空挺堡(航空輸送の拠点)の確立を目指した。その目的は、空港から首都キーウへとすばやく進撃し、ウクライナ政権を崩壊させることにあった。だが、空港の守備にあたった徴集兵を中心としたウクライナ守備隊の頑強な抵抗に直面したロシア空挺部隊は空港占拠に手間取り、さらにウクライナ軍の反撃にも直面した結果、迅速な空挺堡の確立とキーウへのすばやい進撃は実現できずに終わった。

キーウとホストメリ空港(Google Mapsより、一部加工)

ロシア軍のウクライナ侵攻計画

2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ全面侵攻計画は、ウクライナの軍事力の破壊を目指す従来型の統合軍事作戦というよりも、拡張された政権転覆工作というものに近い内容だった。ロシア軍は迅速な首都攻撃によるウクライナ政権首脳部の排除と、多方向から同時に機動部隊を進入させることによってウクライナ軍の抵抗力を麻痺させることを狙った作戦行動をとった。これはオーソドックスな侵略戦争というよりも、例えば「プラハの春」を終わらせた1968年のチェコスロヴァキアへの軍事介入に近い行動だ。なお、ロシア軍の侵攻計画に関しては、英国王立安全保障研究所(RUSI)の報告書”Preliminary Lessons in Conventional Warfighting from Russia’s Invasion of Ukraine: February–July 2022”に詳しく分析されている。

ロシア軍作戦計画(”Preliminary Lessons in Conventional Warfighting from Russia’s Invasion of Ukraine: February–July 2022”, RUSIより)

この作戦計画を成功させる目的で、ロシアの保安・情報機関はキーウ周辺に工作要員を浸透させていた。特殊工作活動と空挺部隊によるホストメリ空港制圧が、キーウに対する「斬首作戦」の成功を保証するものになるとロシア側は想定していた。

だが、ウクライナの情報・治安当局はロシアの侵攻を前に、工作員ネットワークの主要素の無力化に成功していた。それに加えて、侵攻作戦に参加するロシア軍部隊は、作戦概要に関して事前にほとんど知らされていなかった。結果的に、ロシア軍部隊の多くは、演習のための部隊展開が、厳しいスケジュールと多方面からの侵攻が伴う複雑な大規模作戦に変更されたことに驚くことになった。一方で、ウクライナ軍も想定との相違に驚くことになった。ウクライナは、ロシア軍がドンバスに重点を置いて攻勢を仕掛けてくると予想していたからだ。

ロシア軍、ホストメリ強襲

2月24日の朝、ロシア空挺軍(VDV)所属の第31親衛空中強襲旅団と第45独立親衛スペツナズ旅団から選抜された200〜300人の将兵は、攻撃ヘリコプターを含む34機のヘリコプターによって、空からホストメリ空港を目指した。

一方、ウクライナ側であるが、首都防衛を担う第72機械化旅団は展開のために移動中であり、ホストメリ空港の防衛にあたる国家警備隊の第4即応旅団は、その主力が南東方向へと移動しているところだった。この第4即応旅団の動きは、ウクライナ側がロシア軍の重点をドンバスだと想定していたことに起因する。その結果、ホストメリに残っているのは200人に過ぎず、その人員は新たに徴集された兵員と後方要員であって、戦闘部隊の兵士と呼べるものではなかった。残っていた将校も戦闘士官というよりは主計士官のような人々だった。装備も小火器程度で、防空システムも牽引式対空砲1門と旧式の携帯式対空ミサイルしかなかった。

開戦と同時に、ロシア航空宇宙軍(VKS)はウクライナ側防空システムの機能低下と無力化を企図して航空作戦を開始した。だが、VKSは2つの問題に直面することになる。

一つはウクライナ軍の重厚な防空ネットワークだ。ウクライナ軍はソヴィエト連邦の遺産を引き継ぐかたちで、欧州最大の地上配備型防空システムを備えていた。もう一つの問題は、VKSの能力の問題だった。移動式防空システムを探知するVKSの能力は低く、また、移動式防空システムに与えた損害に関する戦闘被害評価を、適切なタイミングで行う能力も低かった。そのためVKSの敵防空網制圧任務は不完全なかたちで実施されることになった。

さて、ホストメリを目指すロシア軍強襲部隊は低空飛行で侵入を開始し、途中ウクライナ側防空網に探知され、ヘリコプター2機を失いながらも、24日11時頃、ホストメリ空港を強襲した。ウクライナ軍空港守備隊はヘリコプターの接近に気づけず、攻撃は奇襲になった。だが、ウクライナ軍の対応は、ロシア軍が想像した以上に頑強なものだった。ウクライナ側はロシア軍後続部隊の空港利用を阻止するため、滑走路上に大型トラックを移動させることも行った。

しかし、ロシア軍攻撃ヘリコプターがウクライナ守備隊を見つけ出し、攻撃するのに長い時間はかからなかった。そして、攻撃ヘリコプターは機銃掃射を開始した。この状況のなか、一人のウクライナ軍兵士が旧式の携帯式対空ミサイルをヘリコプターに向かって発射した。このミサイルはヘリコプターに直撃し、ヘリコプターは墜落した。この攻撃がウクライナ守備隊の士気をあげ、さらなるヘリコプター撃墜を成功させた。

ロシア軍攻撃部隊は、攻撃ヘリコプターの支援のもと、空港と隣接施設の占拠のために動き出した。彼らはヘリボーン作戦に慣れた部隊ではある。しかし、おそらく事前準備に欠いており、さらに遮蔽物がほとんどない空港において軽武装で戦闘を行うことにより、苦戦を強いられることになる。また、この空港の規模を考えると、制圧するには人数が少な過ぎた。

激しい抵抗を続けるウクライナ守備隊も弾薬がなくなり、後退を余儀なくされた。空港北側の20人程度の兵士たちは退路がなく、投降するに至ったが、それ以外の守備隊は秩序立って後退した。そして、ロシア軍攻撃部隊は午後1時頃、空港を制圧した。だが、上空にいたヘリコプターは帰投し、彼ら自身は砲も戦車もない軽武装のままで取り残されることになった。一方、ウクライナ軍は、兵力の動員を進めており、首都周辺での決定的な火力優勢を保持していた。

ホストメリ空港での戦闘が続くなか、1,000人の増援兵力を乗せたロシア軍輸送機が、プスコフからホストメリ空港に向かって飛んでいた。だが、この増援輸送機隊は途中で引き返してしまった。これはこの戦いの流れを左右する重要な瞬間だった。引き返してしまった正確な理由は分からない。それは、ウクライナ軍の砲撃で滑走路が使用不能になったことに起因するのかもしれないし、ロシア軍先遣隊が飛行場を統制できなかったことに起因するのかもしれない。もしくは、ウクライナ防空システムによって、輸送機が撃墜されることを恐れたからかもしれない。

空からの増援のほかに、ロシア軍は地上からの増援も期待できた。ベラルーシからチョルノービリを経由して進撃する機械化部隊だ。だが、地上進撃部隊は狭い侵攻路での戦闘で遅延し、予定通りに前進できずにいた。その結果、ホストメリ空港のロシア軍は、単独で戦争初日の夜を過ごすことになる。

ウクライナ軍、反撃開始

ウクライナ軍はホストメリ空港の重要性を認識していた。ここがロシアの手に落ちれば、首都キーウは重大な危機にさらされる。ウクライナ軍指導部は空港を取り戻すべく反撃を命じた。部隊が急ぎ集められるなか、退役兵と民間人が反撃を支援し、キーウを守るために武器をとった。空中強襲部隊がヘリコプターを使ってジトームィルから出発する一方、機械化部隊はホストメリから60マイル(約96km)ほど南方にあるビラ・ツェルクヴァの基地から陸路で移動していった。

午後3時30分、ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンシキーは「敵の動きを阻止した」と宣言した。だが、反撃はまだ始まっていなかった。日没の少し前、ウクライナ軍の反撃が、砲撃とSu-24の爆撃を伴って始まった。ロシア軍の防御準備は不完全で、あるウクライナ軍兵士は「テレビゲームをプレイする」ようなもので、「空港外の自軍陣地から奴らを撃って倒すだけ」と語っている。

夜が明ける前に、ウクライナ軍は空港の奪還を宣言した。生き残ったロシア兵は空港西方の林のなかへと後退した。午後9時には、第4即応旅団は勝利を祝う兵士の写真をフェイスブックに投稿した。

しかし、ウクライナ軍は空港を長く保持することができなかった。ロシア軍機械化部隊が北から迫ってきており、それに対抗できる戦力がウクライナ軍にはなかったからだ。ウクライナ反撃部隊は撤退することになったが、その際に砲撃と爆撃によって滑走路に穴を開けていった。その結果、この空港がロシア軍空挺堡として機能することはなくなった。

25日の朝、ロシア地上部隊が空港に到達し、再び空港を制圧した。ウクライナ当局者は当初、ロシア軍が空港を制圧したことを否定したが、この日の終わりにはそれを認めた。だが、その前にウクライナ国防相は、ダメージの大きさゆえに空港が使用不能になったと発表している。

その後と教訓

ホストメリ空港の戦いののちの出来事とこの戦いの教訓に関しては、本記事冒頭で述べたように、原文の日本語訳を示していく。以下、引用(訳文は本記事の著者による)。

ホストメリ空港の戦いは、ロシア・ウクライナ戦争における、現在に至るまでで最も重要な戦いだったといえるだろう。ウクライナ軍はこの空港の支配を維持できなかったが、国家警備隊の徴集兵は、ロシア軍がホストメリ空港を空挺堡としてすぐに使うのを防ぐのに十分なほど長時間、ロシア軍の強襲を遅滞させた。ホストメリ北方のウクライナ軍も、ベラルーシから南進する機械化大隊群を遅滞させた。その遅らせた時間は、ウクライナ軍がホストメリ空港で反撃する機会を生み出し、滑走路をまったく使用不能にするために、意図的に滑走路を穴だらけにする機会をつくり出すのに十分なほど長かった。

ホストメリでの失敗は、ベラルーシからのロシア軍進撃の遅延によって、さらに悪い事態を招くことになった。この結果、ロシア軍は奇襲の要素を失い、予定よりも何日も遅れて、首都占領を試みざるを得なくなった。しかし、その後の1カ月に起きたこと、それはつまりイルピン、ブチャ、モシュチュン、その他のキーウ周辺集落での、行き当たりばったりで協調性に欠くようにみえる一連の攻撃のことだが、それを踏まえると、ロシア指導部は真剣な代替案をつくっていなかったように思われる。ウクライナは戦争の最初の1週間、ホストメリ西方での適切な防衛態勢と防衛戦力に欠いていた。だが、ロシア軍は状況に適応できず、空港からホストメリ市中心部へ強襲を仕掛ける当初案にこだわった。ロシア軍はこの町の包囲を完遂することもできず、ウクライナ軍が首都防備を強化することを許した。

空挺堡の確立に失敗し、迅速な勝利を目指す試みにも失敗したことで、ロシア軍はキーウ外周部の市街地に立てこもるウクライナ軍と戦わざるを得なくなった。そのロシア軍は機械化編制部隊による機動戦を強く志向した軍隊で、訓練不足で、密集した市街地環境での戦闘への備えが適切にできていない軍隊だった。空挺部隊も市街地環境で効果的に任務を遂行するための準備と訓練に欠き、通常のロシア軍歩兵よりも精鋭であるわけでもなかった。この町で直面した困難以上に、ロシア軍は補給線に関する困難にも直面した。ベラルーシから続く幅の狭い地上連絡線を、ウクライナ軍は抑え込んだ。そのためにウクライナ軍は橋を破壊し、この町の北西にある河川を決壊させ、待ち伏せ襲撃を実施した。ロシア軍につきまとい続けた問題は、全体的な兵站上の失敗から生まれたのではない。それは、ベラルーシからのロシア軍の進撃を妨害するウクライナ軍の努力が効果を発揮したことから生じた。それには橋の破壊や河川を決壊させることが含まれている。

それから1カ月間、ウクライナ軍はロシア軍を着実に消耗させ、最終的にはロシア空挺軍、スペツナズ、特殊作戦部隊のなかの最も練度の高い部隊を弱体化させるに至った。3月25日、ロシア軍はキーウからの撤退を発表した(ただし、この都市の端にさえ一度も突入できなかったのだが)。そして、4月1日、ロシア軍はホストメリから引き上げ、首都占領と迅速な戦勝という目標を諦めることになった。4月6日までにロシア軍はキーウ州から完全に撤退した。練度の高い歩兵が乏しかったことと、緒戦期の数週間で被った損失が、2022年のロシア軍戦役にずっと尾を引く影響を残すことになったのだろう。2022年のロシア軍戦役は構造的なマンパワー不足に苦しめられたが、とりわけ市街戦戦闘能力をもつ戦力に関して、それがいえる。

この戦いは多くの教訓を与えている。まず、この戦いが明確に示したことに、長距離攻撃作戦にとっての十分な支援火力(砲兵か空軍、もしくはその両方による)の必要性がある。この致命的重要性をもつアセットを欠いたことで、ロシア軍はウクライナ軍による首都方向からの砲撃に対して脆弱になった。そうなったのは、空中強襲作戦に火砲が含まれておらず、ウクライナ軍火力に対抗する能力がなかったからだ。結果として空挺部隊は、首都強襲を支援するのに十分なほどすばやく、空港の占拠及び確保ができなかった。

この戦いは、早期に航空優勢を得て、それを維持することの重要性もまざまざと示した。ロシア航空宇宙軍(VKS)は、レーダー妨害と[防空]固定拠点の制圧に関しては、初期に一定の成功をおさめることができた。だが、移動可能な防空システムが一度、移動展開してしまうと、その対処を効果的に行うことができなかった。開戦後の数日間、VKSの活動によって、ウクライナ軍防空システムは生き残るため、あちこちに移動せざるを得なかった。しかし、数日後、ウクライナの地上発射型防空システムは稼働できる状態で戻ってきて、ロシアの空軍力を上空から閉め出し始めた。当初の侵攻計画が破綻したとき、VKSは、ウクライナ防空ネットワークに対処する能力も、経験も、計画も、自らにないことに気づいた。VKSは開戦当初の短い期間、ウクライナ軍防空網への対処に成功した。だが、VKSは地上発射型防空網の破壊に関する訓練を優先して行っていなかった。それは、NATO軍が航空優勢確保に依存しており、そのため、NATO軍はその軍事構造内から地上発射型防空能力をすでに捨て去ってしまったとVKSが考えていたからだ。ウクライナ防空能力をノックアウトさせる一発を決めることに失敗し、ロシア軍は制空権もしくは航空優勢の確保ができなかった。ロシア軍は戦争が続く間、自軍の制空権もしくは航空優勢を享受できることを、おそらく期待していたのだろうが。

この転換点となった重要な戦いがさらに示しているのは、作戦コンセプト及び軍事戦略の形成における政治的想定の優位性である。この戦争の場合、これは弊害をもたらす結果につながった。ロシア軍はハイリスクな作戦を試みた。それは失敗する可能性があり、そして実際に失敗した。もしロシア軍が長期にわたる通常戦と幅広い抵抗を想定し、統合軍事作戦としてウクライナ侵攻を行ったとしたら、好意的にみた場合でも、その結果はどちらに転ぶか分からないものになっただろう。だが、この侵攻計画の背景にあるロシア側の多くの想定が根本的に誤っていたとはいえ、ロシア軍の開戦劈頭の強襲攻撃が失敗に終わるべく運命づけられていたわけではなかった。ホストメリにおけるウクライナ軍の頑強な防衛とその後の反撃が、ロシア側の斬首攻撃の企図を台無しにする決め手となった。仮にホストメリでのロシア軍の作戦が実際とは違った展開を示し、ロシア軍が開戦劈頭の数時間で首都に突入していたら、それが侵略全体の流れに連鎖的な影響を及ぼすことになった可能性がある。

ここで述べてきた詳細は、この歴史を掴むための初期的な、そして、よく言って不完全な試みであることに変わりない。この論考がまさに示したい点は、歴史というものがいかに偶然に左右されるものであるかということと、主体的行動の重要性である。個々の指揮官、兵士、民間人の行動は、戦争の流れを決める一助になるであろう決定的に重要な戦いに、極めて大きな影響を及ぼすことができる。そして実際にその影響を及ぼしたのだ。

Collins, Kofman & Spencer “THE BATTLE OF HOSTOMEL AIRPORT”

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