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日本の無条件降伏から75年 日航機墜落から35年

垂直尾翼の大部分を失ったまま524人を乗せて東京都・奥多摩町上空を飛行し続ける日航123便「JA8119号機」の最後の姿

1985年8月12日、東京羽田から大阪伊丹空港に向かった日航機123便は相模湾上空で垂直尾翼や油圧系統を失いながらもパイロットは東京都や埼玉県など首都圏に戻ることに成功。ダッチロールを繰り返す日航機はその後、墜落直前南側の長野県川上村側から北側の群馬県上野村の高天原山の尾根に墜落して、航空機事故史上最大の520名が死亡する。(奇跡的に4人の女性だけが救助されている)

日航機123便が垂直尾翼を失って墜落するまで32分間迷走した米軍管轄の「横田空域」(日本に返還されれば東京-大阪間がたった30分に)

現在、羽田空港以西の東京都や神奈川県埼玉県など関東地域や静岡県や新潟県までの1都8県にまたがる米軍管理下の『横田管制』が空域を管理しているので、東京の羽田空港から大阪の伊丹空港に向かった日航123便も離陸後に高度を上げながら、わざわざ東京湾上を旋回、いったん千葉方面に回り込んでから日本列島を南に迂回して相模湾上空を通過して西へ向かった。この時日航機の垂直尾翼が脱落しダッチロールを繰り返しながらも東京方面(出発点の羽田空港)に引き返そうと努力したと思われる。

墜落事故から10年目の1995年に事態は大きく動く

米軍C130輸送機が「横田空域」を無断で飛行する垂直尾翼が無い日航123便を追尾していて墜落や火災現場を確認、「御巣鷹の尾根」にも早々と20分で米軍救助ヘリが到達していた。ところが『自衛隊の救援部隊が来るから撤退せよ』と命令で救助活動を中止、アメリカ海兵隊の救助隊全員が撤退する。

その後に何故か理由は不明だが米軍は箝口令を敷いて米軍のC130や救助ヘリ出動を機密扱いにしたが、10年後に当該輸送機のパイロットが米軍機関紙スターアンドストライプで「御巣鷹の尾根」の墜落確認の顛末を証言して明らかになる。(★注、墜落から救助開始まで16時間も放置、見殺しにした自衛隊が無い方が大勢の日本人の命が助かっていた。それまで自衛隊の悪質なサボタージュを告発していたのは日本では共産党一人だけだったがアメリカ軍が正しさを証明する)

墜落から10年目の節目に、一旦は明らかになりかけた墜落当時の真実、当時の新聞『見出し』

御巣鷹の惨劇から10年後の1995年(平成7年)8月29日(火)
『85年の日航機墜落 米軍ヘリ、2時間後現場に』 『救援活動は直前に中止命令』 『米軍準機関紙で当事者が手記』(しんぶん赤旗)
『日航機事故 直後現場に米軍ヘリ 準機関紙に元中尉証言』 『帰還命令、救出せず』 『生存者増えた可能性』(朝日新聞)
8月30日(水)
『あ然 GI証言』 『日航機事故 墜落2時間後上空にヘリ』 
『「帰還命令で救助せず」 救助隊到着は12時間後』(毎日)
8月31日(木)
『午後7時20分、墜落現場をつきとめた』 『85年の日航機事故 米軍準機関紙での 米空軍中尉(当時)の手記』
『日本の現場到着は12時間後』、  『早ければもっと助かった』 『2時間後、海兵隊が救助に…指令部は「引き返せ」と』  『落合さんの説明を読みゾッと…もし救助が許可されていたら』(しんぶん赤旗)

連日各紙が10年前に520名が死んだ日航機事故での米軍の救助中止を報道して、自衛隊の組織的なサボタージュ(卑劣極まる救助活動の妨害)が明らかになり日本中が一時騒然となっていた。

墜落から20分で米軍救助ヘリが到着、救助隊員は現場に降下していたが、その後自衛隊が引き継ぎ地元警察や消防、報道陣に対してニセの墜落情報で引きずり回して16時間もの間、遭難者の救助を遅らせる。(★注、①から⑥の番号は日本の自衛隊が発表した偽の墜落現場。日航機の墜落現場では森林火災まで起きていたのですから遠くからでも確認できた)

墜落事故の救助を指揮した自衛隊は、地元住民の目撃情報を無視して一切救助活動には生かされない。

元々、日本のマスコミの全部が政府権力のアンダーコントロール「大本営発表」だった

520人が死んだ墜落現場は決して人跡未踏の秘境では無くて首都圏の近郊であり確実な目撃者たちがが何人も、多数存在していた。ところが自衛隊が全部握り潰す。もちろん自衛隊だけではなくて警察もNHKなどマスコミも有識者も一致協力、隠蔽したのである。
その後は『挙国一致』で30年間も『見ざる言わざる聞かざる』で隠し続けたのですから怖ろしい。呆れ果てた話である。

墜落から30年目NHKスペシャル 『日航ジャンボ機事故 空白の16時間』2015年8月1日 明らかになった数少ない真実の断片


中嶋初女さん67歳長野県川上村梓山居住が書いた墜落後の高原天山の尾根に立ち上がった煙と火の(NHKスペシャル日航ジャンボ機事故:空白の16時間~"墜落の夜"30年目の真実)

520人が死んだ墜落現場は決して人跡未踏の秘境では無くて首都東京から100キロ程度、首都圏の近郊であり確実な目撃者が何人も存在していたことが30年後のNHKスペシャルで明らかになる。

なんと、日航機の墜落から十数分後には地元警察に幾つもの正しい目撃情報が通報されていたが、全て無視されていたのである。
しかも、一番驚いたのは(警察や自衛隊などの官僚組織のだけでは無くて)30年間も何故かNHKも民報も新聞社も、日本中のマスコミ全員が挙国一致、一つの例外も無く『横並び』で無視していた。
地元住民の多数の『確実な目撃情報』が挙国一致で一律に『報道もされない』など、あまりにも不思議すぎるのである。

このような驚愕の目撃情報は、話題が少ない田舎の小さな村落では秘密どころか全員で大騒ぎになるので、例え全国紙が無視したとしても、普通ならば地域密着型の地元紙が詳しく報じる。ところが地方紙までが挙国一致『大本営発表』の悪事に全面協力して隠蔽して、このNHKスペシャルが初めての報道なのですから驚くやら、呆れるやら。


地図の★地点は日航機の墜落現場 長野県川上村梓山地区の住民の目撃情報から、比較的容易に高天原山と三国山の間の尾根であることが判明した。

墜落現場の南側に隣接する長野県川上村の住民によると、低空を巨大な航空機が頭上を飛び去って長野群馬の県境の山並み(標高1978メートルの高天原山)を超えた直後に閃光と衝撃音が起きている。
住民は即座に旅客着の墜落だと判断し、警察に通報した。
日航機の墜落現場は長野群馬県境から450メートル地点だったので、墜落直後に警察が掴んでいた(マスコミが公表しなかった)この長野県川上村の住民情報は一番『正しかった』のである。
しかも、墜落地点の『御巣鷹の尾根』は埼玉県秩父市(旧大滝村)と長野県川上村を結ぶ中津川林道の三国峠からなら徒歩でもわずか1時間程度で簡単に到達出来るほどの近い距離だった。
近代装備の自衛隊が、墜落してから16時間も放置するなど論外なのである。


長野県川上村から見た高天原山。(日本航空123便墜落事故の墜落現場は、高天原山の群馬県側標高1,565m付近)

1985年8月12日の18:56分(当日は明るくて、まだ十分目視ができた)に高天原山と三国山の間の尾根に墜落した日航機

5~6人の川上村の住民たちが頭上を日航ジャンボ機が飛び去って県境の尾根に墜落した時の衝撃音や閃光、大きな爆発のきのこ雲まで目撃していたと証言している。
もちろん、すぐさま地元警察(駐在所)にも墜落を連絡したにもかかわらず、現実には長野県北相木村、長野県南木村、そして群馬県上野村の山や尾根が捜索の対象となり、いわゆる御巣鷹の尾根(=高天原山と尾根で三国山の尾根の近く)であることが判明するまでにはNHKスペシャルによれば16時間も要したこととなっている。(墜落から、実際に遭難者が自衛隊に救助されるまでなら18時間以上も放置されていた)

★注、3県県境の三国山周辺では長野県川上村の梓山地区だけが畑や水田がある唯一の開けた場所で、住民も多いし交通の便も良い。

高天原山の墜落現場からは御巣鷹山は遠くて、この地図では上側に外れている。
墜落現場の群馬県上野村の黒沢丈夫村長が命名した「御巣鷹の尾根」には別の目的があったと思われる。(そもそも北側の尾根が邪魔して墜落現場からは御巣鷹山が見えない)


川上村村道の最高地点から墜落現場までの黄線ルート(他にも三国峠駐車場から三国山を経る稜線ルートもある)

長野県川上村梓山地区の多数の目撃情報を自衛隊やNHKがを無視しなければ、・・・

救助隊は、川上村役場から高天原山南斜面川上村側の林道まで車で50分、その後の登山、尾根つたいに下る時間を含め最大2~3時間としても、墜落後3~4時間で現場に到着出来た。
長野県川上村側の高天原山(1800m)から墜落現場は川上村道192号梓山線から高天原山まで登り、その後、尾根伝いに下るだけで到達する。(降り直線で約2.9km)
高天原山に登れば墜落現場まで徒歩で比較的容易に行ける。
航機墜落地点は、間違いなく長野県川上村の梓山地区からみれば、高天原山と三国山の稜線の間の群馬県側の尾根にあることが明らかだった。
航空機の自衛隊は墜落から16時間かかったが、長野県川上村梓山地区から歩いて墜落位置が容易に確認できたのである。

2015年08月12日 | 政治 

30年間「謎」のまま放置される日航ジャンボ機墜落原因
8・12「茜雲」日航機墜落から30年 未だ究明されない謎

日航機墜落事故『8・12連絡会』の活動の30年の集大成に対して、全国紙のなかでも論調が安倍内閣に近い右翼的な産経新聞や日経新聞、事故では兵庫県関係者も100人以上が亡くなった関係で神戸新聞が7月19日に紹介記事を書いている。(★注何故か朝日新聞や毎日新聞では『茜雲』について書いた形跡が無いのが不思議だ)

1985年8月12日の墜落から30年後の不思議な赤旗記事

日本協賛党機関紙赤旗も1ヶ月遅れで8月9日に読書欄の署名入りコラム『背表紙』で紹介する。(日本協賛党はパソコンの変換ミスなのだが、『日本共産党』よりも意味としてはピッタリする)
同じ本の紹介なので当然といえば当然ですが、産経も日経も神戸新聞も書いていることは、ほぼ同じ内容。ところが赤旗の読書欄コラム『背表紙』だけは大きく違っていた。(今では商業紙と同じことしか書かなくなった赤旗編集部ですが、記者個人個人のレベルではしぶとくジャーナリスト魂は死なずに生き延びていたのでしょう)

赤旗の『背表紙』は国交省の外局である運輸安全委員会が作成した『解説書』がメイン。もちろん本物の8・12連絡会の『茜雲』の内容も(産経新聞などが無視した)運輸安全委員会『解説書』の紹介だったのである。(日本のマスメディアとしては唯一赤旗の『背表紙』だけが、恐々だがタブーに挑戦している)

背表紙(赤旗)の不思議な記述

『遺族の投稿のほか,事故から26年後の2011年に国交省の外局である運輸安全委員会が作成した「解説書」に、本書の半分近くを充て紹介しています。
事故の2年後に発表された航空事故調査委員会報告書は、「専門的過ぎて一般人には分かりにくく」、遺族たちの「いくつもの疑問点に対して明確に応えてくれるようになっていなかった」「その視野の中には、事故の最も重要な関係者である被害者・遺族が入っていなかった」という問題を抱えていました。
運動が実り,遺族が「納得いく事故調査への第一歩」と評価するのが11年「解説書」です。
そのことを喜びつつ,要した歳月の重みを実感します。空の安全を前身させるうえでも。学ぶことが多い一書です。(清)』

運輸安全委員会『解説書』

先ず最初に墜落事故の2年後に発表された航空事故調査委員会報告書の急減圧を否定している、『生存者の証言とのトンデモナク大きな矛盾点』を取上げているのです。
それなら安全委員会の『解説書』は、事実上『事故調』の結論(事故原因)を否定していることになる。
520名もの尊い命が失われた日航機墜落事故の原因が、未だに不明なままで30年が経過して現在に至っている。

墜落から30年で完全に風化した8月12日のマスメディアの無残

日本中の報道機関は全員が挙国一致で、金太郎飴の様な寸分違わない同一記事を垂れ流す様は異様を通り越して、最早滑稽でさえある。
日本のメディアでは『赤旗』だけが辛うじて真実の断片を報じていた。
ただし、元々知識を持っている層は理解出来るが、残念ならがら『知らない層』には記事の意味が理解出来ない書き方になっている。
赤旗は、
『運輸省航空事故調査委員会(現国土交通省運輸安全委員会)は57年に事故調査報告書をまとめました。
事故の推定原因は、米ボーイング社が後部圧力隔壁の修理でミスし、金属疲労による同隔壁の破壊と、それに伴なう操縦系統の損壊、とされています。しかし、この推論には多くの疑問が投げかけられています。
遺族らが事故の再調査を求める中、事故から26年後の2011年には、運輸安全委員会が当時の事故調査過程を説明し、遺族の疑問に一定の回答をした「解説書」を公表しました。』
この赤旗記事ですが、墜落事故の真相を分かっている人には分かるが、分かっていない人にはまったく分からない代物。叩かれたくない気持ちは判るが根性無しにも程が有る、このような腰が引けた態度では読者が減ることはあっても増えることは無い。
(抜粋)

政権交代(民主党政権)の2011年の大事件(事実上、以前の圧力隔壁説を否定していた)運輸安全委員会『解説書』

日航パイロット組合などの航空関係者や日航機事故の遺族の3・12連絡会など関係者の全員が事故直後の運輸省事故調査委員会のボーイング社の尻もち事故の修繕ミスによる隔壁破壊で垂直尾翼が吹き飛んだとの荒唐無稽なデマを信じていない。

35年経った今も関係者や有権者の全員は日本政府に対して、520人が死んだ日航機墜落事件の事故原因の再調査を要求していた

そして9年前の民主党政権時代の2011年に運輸安全員会解説書という形で一部ではあるが大きく真相解明に踏み出したのでのである。

この事実を日本で唯一書いたのが8・12連絡会の「茜雲」だった

ところが3月11日東京電力福島第一原発の原子炉4基が暴走する未曾有のレベル7の核事故の発生で全ての謎が有耶無耶に。すべては「元の木阿弥」になって、一周回って元の位置「無条件降伏」に戻ってしまう。

3・11フクシマ以後、それまで日航機墜落の事故原因の究明を要求していた(自衛隊のサボタージュを厳しく告発していた)日本共産党は態度を翻して、すべての党派やメディアが参加する挙国一致の体制翼賛会「大本営発表」体制が出来上がり、現在に至っている。(★注、挙国一致「体制翼賛会」にとって、最後のピースこそ政界最左翼の日本共産党の参加だったが、とうとう敗戦から66年後の2011年に完成したことは興味深い)



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