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感想と解釈 - ゼルダ無双 厄災の黙示録

  • 「ゼルダ無双 厄災の黙示録」と「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」のネタバレと独自解釈を含む感想文です。

  • 主にシナリオ上の気づきや感じたことをまとめています。特にテーマはなく雑多な内容です。

  • 本作およびブレワイをクリア済で両作のファンである人に向けた内容です。

  • 文中でキャラの台詞等を引用していますが正確性は保証しません。

  • 読了時間 約16分(約7800字)


ハイラル平原の戦い

まずはゲームの進行に沿いながら個人的に注目したクエストに絞って流れを振り返ることにする。最後に全体的な感想を述べる。

まず最初の戦いであるハイラル平原の戦い。スタート地点はあの祭壇である。この場所はブレワイにおいて英傑たちが集った思い出の地である。もちろん時系列的にはまだそのシーンの前ではあるが、ブレワイのスピンオフとしてのこの作品がこの場所からスタートするというのは意義深い。ブレワイにおいてこの場所は歩行型ガーディアンが跋扈する危険地帯であり通常プレイであれば終盤に訪れる場所である。しかし今回はそこから、しかもハイラル城を背にして進むことになる。

余談だがこのステージはチュートリアルステージとして完成度が高いと思う。中盤でインパが解禁された後、ファイアロッドを手に入れるのが肝である。これによって強敵であるモリブリンを容易に倒せることを学ぶ。しかし最後のエリアにいるモリブリンだけは水辺にいるので、草地におびき出すか真っ向勝負しない限り倒せない、といった内容。

王立古代研究所へ

ガーディアンがボスとして登場するステージ。暴走するガーディアンに対して最初は逃げるしか手がないが、テラコが事態を打開する道を示す。

ポイントはリンクやインパに護られていることをゼルダが自然に受け入れている点だろう。彼女はシーカーストーンを使って戦うと言い出すが、それは今後そうなるようにハイラルの姫としての悲壮な決意から言っているのではないことは明らかだ。まだリンクが退魔の騎士ではなく、厄災復活が差し迫っているわけでもないので、彼女は自然体である。

ゾーラ族の姫ミファー

個人的なポイントは最初のムービーでの「リンク、また背が伸びたんだ。でも変わらないね」である。実際には身体的にも精神的にも変わらないはずはないのだが、彼女にとってリンクは昔のままなのだ。なんだか言い聞かせているようにも聞こえるというのはさすがに考えすぎか。

そしてもう一つのポイントは幼いシドが里を守るために戦う意思を見せることだ。このあと未来からやって来たシドが里どころかハイラルそのものを守るために戦うことになる。

ゲーム的には第二のチュートリアルステージである。突然多数の救援要請が届くことになり最初は慌てるだろう。これまではさほど必要なかった非操作キャラの移動先指定が必要になってくる。実はここではゾーラ隊長たちが敗走してもゲームオーバーにはならないのだが、気分のいいものではない。

コログの森解放戦

リンクがマスターソードを初めて入手するシリーズおなじみのシーンが挿入される、と言いたいところだが、ブレワイではそのシーンは描写されなかったのだった。ここで満を持してそれが描かれる。

シリーズにおいて、マスターソードを手に入れたあとのリンクはシナリオ上で負けることが基本的に無いのだが、ここではすでにブレワイでの結末を知っているのでプレイヤーとしては心境複雑である。シリーズおなじみのテーマが流れて実際にアストルを撃破することで剣の力を実感することができるが、ブレワイのシナリオを踏まえると逆に新鮮に感じる。

シナリオ上のポイントはマスターソードにリンクが選ばれる直前の状況であろう。アストルが怨念たちにゼルダを襲わせようとし、リンクが手を伸ばしたところで剣がそれに応える。これはブレワイや本作においてゼルダの力が覚醒するときの状況と対になっている。封印の力と同じくマスターソードも誰かを護りたい気持ちに応えて覚醒するのだろう。結果的にアストルの行動によってマスターソードと封印の力がともに覚醒しているのは皮肉である。

ちなみにコログの森に突入する前のムービーでリーバルが独演会をするが、このシーンはけっこう重要である。というのは、ここで彼が言う「それじゃそろそろ見せてあげようか、神獣ヴァ・メドーの力をね」という台詞は後で繰り返されるからだ。次に言うのは厄災復活後、カースガノンの襲撃を退け、追撃をかける前である。同じ台詞だが意味合いは全く異なっている、というより、あえて違いを際立たせるために同じ台詞にしていると言うべきだろう。

一度目の発言ではリンクをはじめ他の英傑たちに対して自身の力を誇示するために言っているが、二度目の発言はカースガノン、延いては厄災そのものに対して宣戦布告している。これは彼が本当に向き合うべき敵、真の敵をようやく見定めたということを示している。

カースガノンを完全に退けたあとのムービーの様子だけでは何も成長していないように見えるが、このように明確に彼は変わっているのである。

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こちらは一度目の発言シーン。
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こちらが二度目の発言シーン。高慢さが消え、力強い口調に。

ハイラル城への帰還

やはりシナリオ上の重要なポイント。ブレワイで散々語られた、ゼルダがリンクに対して感じていたコンプレックスがついに現れる。ここまでの流れはテラコの存在もあってブレワイ本編の哀愁を忘れるような和やかさだったが、徐々に暗雲が立ち込めてくる。

ここでのポイントはマスターソードを手にしたリンク固定でプレイさせられることであろう。このステージは敵もさほど強くなく文字通り「無双」できるのだが、それが演出上の意図なのだろう。つまりリンクが力を示せば示すほどゼルダはつらくなるというわけである。無双ゲーなのに無双することに罪悪感を覚えることになるとは。

東西救援戦

四英傑のもとにテラコが未来から呼び寄せた子孫たちが救援してくる衝撃の展開。しかし考えてみれば、これくらいの無茶がない限り、本来この結末は曲げてはいけないのである。もしリンクたちだけで救援が間に合ったり、プレイヤーが英傑たちを操作してカースガノンを撃退できたりしてしまったら、ブレワイにおける彼らは単に失敗しただけなのかということになるから。実際どうしようもなかったのであり、本作では根本から前提をひっくり返す未来からの救援があったからこそ結末が変わったのだろう。

しかしテラコの剛力をもってしてもゼルダの力を覚醒させることは叶わず、皆が無事を確かめ合う中で彼女だけが自身を追い詰めていくことになる。もちろんこの時点では父を失ったと思っていることも影響しているだろう。

アッカレ砦救援戦

冒頭のシドとミファーの会話が個人的なポイント。キャラの整合性が完璧に守られていると感じたシーンの一つがこれである。シドは自分の世界線で姉を失ったことを明言しない。ミファーもさすがにそこまでは察せないだろう。なぜシドは言わないのだろうか。

それはシドがミファーを「助けに来た」からであり、もう決して姉に心配をかけるような真似はしたくないと決意しているからだろう。実際、戦闘中の台詞でもミファーでシドを救援すると「姉さんに助けられるのは複雑(だが嬉しい)」とこぼしている。

またここで思い返したいのが、序盤のゾーラの里の戦いでの幼いシドの行動である。彼もまた姉に黙ってひとりで戦おうとしていた。

本作での幼いシド、未来から来たシド、そしてブレワイのシドが一本の線でつながるさまは見事と言うよりない。本心を押し隠すシドは「また姉さんに会えるなんて・・・」とさえ言わない。

ハテノ砦救援戦

アストルによって追い詰められたリンクを助けようとして、ゼルダの封印の力が覚醒する。状況は異なるがやはりこの場所で。ある意味、犠牲を出さずに力を覚醒させるためにアストルは踊らされたようにも見える。ともあれ、覚醒ゼルダの力によってハテノ砦防衛に成功する。

ゲーム的にはこれこそマスターソード入手に匹敵するシナリオ的分岐点だと思うが、そのシナリオ上の意義に反して覚醒ゼルダの力は強いとは言い難い。少なくともシーカーアイテムに関しては通常ゼルダのほうが高性能だろう。

ポイントはまず力が覚醒した際の台詞(クエスト中なのでプレイに集中していると見落とす可能性もある)「もう大丈夫、大丈夫です」であろう。これはブレワイ真エンドの結びの台詞「もう平気です」からの引用だろう。このような引用は枚挙にいとまがない。そしてクリア後の「厄災ガノンを封印するまで気を抜くことはできません」という台詞。これまでは当然ながら勝利したときにはひとまず安堵したり喜んでいたが、ここでは精神的成長も強調されている。

そして終戦後の兵士たちへの演説。これは冒頭ハイラル平原の戦いの前にあったハイラル王の演説の再現となっている。ただしそのときよりずっと小さな砦で、ずっと少ない兵士たちに対して。力の象徴としてハイラル王が王家の両手剣を掲げたのに対しゼルダは手の甲のトライフォースを掲げるという対比もある。ゼルダが父の後を継ぎ国を背負い厄災を討つ覚悟を示す重要なシーンである(その後、ハイラル王の存命が明らかになるが、彼も娘の覚悟を理解している様子がうかがえる)。

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ハイラル王の演説。
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ゼルダの演説。ずっと少なく傷ついた兵士たちに対して。

始まりの台地救援戦

 そしてついにこの場所に帰る。ハイラル城からスタートして終盤にここへ来るというのは感慨深い。そして神殿やその他の建造物がまだ崩れておらず美しい姿を保っているのも素晴らしい。

シナリオ上のポイントは仲間になったイーガ団が役割を果たす点だろうか。イーガ団がハイラル王家につく理由について語るのは簡単ではないが、ひとつだけ言うと彼らの王家に対する復讐心というのは長い年月のうちにとっくに風化していたのではないだろうか。それでも来た道は戻るにはあまりに長く、組織を維持するために反王家の旗を降ろすわけにはいかなかったのではないか。そう考えるとコーガ様の一見やる気のない態度もうなずける。

補足:もちろん直接的にはアストルの裏切りとスッパを始めとする構成員の犠牲が契機になったことは言うまでもないが、かと言って彼らと王家の間にある溝も簡単には埋めがたいはずなのである。

戦闘後、ハイラル王の存命が確認される。ここでのハイラル王とゼルダの会話、これこそが本作において最も意義深い会話だろうと思う。ブレワイにおいて父と娘の関係については大きな余白が残されていた。意図的なものだっただろうが、そこが今回補完された。

ハイラル王の心情についてはブレワイのハイラル城の図書館にある隠し部屋の手記に記されているが、彼はゼルダに父として向き合えなかったことをここでようやく直接謝ることができた。対してゼルダも父の気持ちを理解していたこと、そしてこれからは重荷を共に背負いたいという気持ちも伝えることができた。

これらのことは明示されなくともブレワイ内の描写から十二分に察することができたとはいえ、それが明示されたことは意義深い。何より、いちファンとして嬉しい! 個人的にはこのシーンを見た瞬間に、このあと何があろうがもうこのゲームは最高だと感じた。

余談だが、ムービーにおける画面の構図には一定の規則がある。ハイラル城の謁見の間で二人が会話する際には必ずハイラル王が上手かみて、つまり画面右側にいるが、廊下での会話やこの神殿での会話を含め、プライベートに話す際にはゼルダが上手にいる。王として接する際のハイラル王の威圧感は、単にその厳しい表情や口調からだけではなく画面の構図からも演出されているのだ。

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ハイラル王が上手にいる。さらに見下ろす構図で威圧的に。
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廊下で遺物を受け渡すシーン。ゼルダが上手にいて、距離も近い。
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神殿での再会。やはり同じ構図。

ハイラル奪還戦

ハイラル平原での再びの戦い。最初の戦いと同じ場所で成長を感じながら戦う。ただし今度は攻める向きが逆である。ハイラル王はゼルダに指揮権を半ば譲りながら彼女を補佐する立ち回りをしている。ハイラル城を覆う怨念による防壁や赤い月による敵の復活などトラブルもありながら、それに動じず落ち着いて指揮を執るゼルダの姿が印象的である。たった一体のガーディアンに翻弄されていた序盤の姿と比較してみると面白い。

ハイラル王がゼルダを救援した際のゼルダの戦闘中台詞「お父様と共に戦えること、本当にうれしく思います」は様々な感情を含んでいる。まず当然ながら父の生存を喜んでいるのだが、それだけでなく立場の違いからすれ違っていた二人の関係がいま理想的な協力関係になったことへの喜びも感じさせる。

厄災封印戦

いよいよハイラル城での戦い。カースガノンとの戦闘中にゼルダが言う「ハイラルの姫の、いいえ私の務めです!」という台詞は彼女の迷いが断ち切られたことを端的に示している。

そしてアストルを追い詰めたところで、テラコが怨念に憑依され、やむなく破壊されてしまう。テラコの正体がここで明らかになる。ゼルダが幼少期に組み立てた小型ガーディアンであり、母の死後、仕舞い込まれ、いつしか忘れられていたもの。

つまり若干の飛躍に目をつむれば、ゼルダの遺物への関心が巡り巡って未来からの救いとなってやってきたと言えるわけである。ブレワイにおいてもっとも残酷だったのは、力が覚醒せず苦悩するゼルダが唯一貢献できると思って打ち込んでいた遺物の研究が、よりにもよって神獣やガーディアンの反攻という悪夢のような結末を招いたことである。役に立とうとする彼女の気持ちさえ利用する厄災の狡猾さ、無慈悲さが印象的だった。

しかしながら、本作ではその部分においても救いが示された。彼女のやって来たことは無駄ではなかったのだと。そして何より彼女が遺物に対して示してきた献身が遺物の側にも伝わっていたという表現であると解釈したい。

厄災ガノンとの最終決戦では、攻撃が通らないガノンに対して、テラコが犠牲となることで活路を開く。このシーンは本作の冒頭のムービーと見比べることで様々な気づきが得られるのでぜひ実際に見比べて頂きたい。

そもそも本作の冒頭、テラコが過去へとワープする瞬間は、ハテノ砦にて瀕死のリンクをかばったゼルダが力を覚醒させた瞬間であった。そのときのガーディアンに対して手をかざすゼルダと、いま最終戦において厄災ガノンに対して手をかざすゼルダは全く同じように描写される。

そして「私が、みんなを・・・」である。これはもちろんブレワイにおいては「・・・死なせてしまった」と結ぶ彼女の深い絶望の台詞であるが、本作ではこの台詞の意味の転換が図られている。実際には続きは言われないのだが、意味合いが180度転換されていることは明らかである。野暮ながらあえて補完するとしたら「護ってみせる」だろうか。

つまりこの台詞の結びを転換することによって、二つの世界線が明確に分岐していることを示そうとしたのだろう。

ちなみにブレワイでの台詞は正確には「私が今までして来た事は何の役にも立たなかった。だから大切な人達を、民を、仲間を、御父様を、死なせてしまった」であるが、本作の冒頭ムービーでは「私がみんなを……」にまとめられている。

最終決戦のBGMの中には本作のメインテーマが含まれている。それ自体ベタな演出ではあるものの、今回に関してはブレワイの魔獣ガノン戦のセルフオマージュだと捉えたい。魔獣ガノン戦のBGMにもブレワイのメインテーマが含まれているので、それを意識しているとみて間違いないだろう。

厄災封印後の個人的ポイントはやはりシドとミファーの会話である。また会えるかという問いに対してシドの答えは「おれはずっと姉さんのそばにいるゾ」だった。最後まで彼は姉に対して心配を掛けまいと奥ゆかしいふるまいを貫いたのである。彼の未来にミファーはいないのに。この世界線には幼いシドがいるので彼は嘘はついていない。

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冒頭のムービーから。
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最終決戦のムービーから。同じ台詞だが意味合いが転換されている。

戦闘スタイルについて

ここからはストーリーラインを離れて全体的な感想を述べていく。まずは各キャラの戦闘スタイルから感じたことについて簡単に書こう。

まずリンクの両手剣スタイルについて、これはブレワイをプレイした人にとってなじみ深い食事での回復行動を取り入れている。こうした原作ネタを取り入れるのは前作ゼルダ無双から同じである。

通常ゼルダに関してはマグネキャッチでトロッコを操作して突進するアクションが印象深い。これはブレワイにおいて二台のトロッコを噛み合わせて上に乗り、マグネキャッチで浮揚させて移動するアクション(flying machine)を元ネタにしていると思う。やったことのあるプレイヤーならばゼルダがハンドル操作に焦りながら最後は落ちてしまう様子にピンと来るはずだ。こうしたネタを公式が認知していて再現までする懐の深さに感銘を受ける。

また覚醒ゼルダに関しては敵に光の環を付与して矢を誘導するアクションがやはりブレワイから引用されている。魔獣ガノン戦において弱点に光の環を出現させていたのが元ネタだろう。

ミファーについて、彼女は槍を使うがリンクのように刺突するのではなく振り回すようなスタイル。ブレワイのDLCであるミファーの日記内の記述にて、リンクの回転斬りに影響を受けたことが示唆されているので、それを拾ったのだろう。

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神獣ヴァ・ルーダニアの操作はおそらく四神獣の中で最も難しいが、これはブレワイにてダルケルが神獣の操作に苦労していたとされることのフォローではないか。

ブレワイの「無力感」

今作では謎のガーディアンことテラコが過去の世界へとタイムスリップしてきたことにより、ブレワイ本編での厄災復活時の悲劇を食い止めることができた(枝分かれした世界線での話であり、ブレワイ本編の世界線とは異なる)。素晴らしいことだが、一方で一抹の寂しさを感じるのも確かだ。この寂しさはいったいどこから来るのだろうか?

ブレワイではすでに起こってしまった悲劇として厄災復活が語られるため、我々はそれに対して全くの無力である。犠牲になった英傑たちやその他の人々を取り戻すことはできない。その無力感はブレワイに漂う哀愁の源であり、我々を惹きつけたものの一つだった。しかし厄災復活による悲劇を食い止めるということは、この無力感による効果を根こそぎ取り除くということである。

整合性

とはいえ、本編と同じ展開では先が読めてしまうから、ハッピーエンドが導入されたのは大方の予想通りとも言える。ポイントとなるのはブレワイ本編との整合性である。

新しい要素の影響で元からあった要素が変化していくのは当然のことだが、そういう影響なしに勝手にキャラの性格や行動が変わったり、世界設定に矛盾が生じていたりすれば、それは整合性がないということになる。

整合性があるならば、たとえ無力感による効果は失われたとしても、別種の魅力がそこに現れるだろう。個別の要素について検証を始めるとキリがないが、結論だけを言えば全体として整合性の度合いは高かったと思う。【終】

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