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エピローグだけの物語

 記憶の中にしか存在しない人がいる。名前もわからない。見た目もぼやけている。だが、性別は異性だった。

 その人と海に行ったとき、かき氷を買ってもらった。私はイチゴをその人はレモンを食べていた。
「なんでレモンにしたの?」私は訊ねた。特に意味のない質問だ。本音はそっちも美味しそうだね、ちょっとちょうだい、だった。
「なんでだろうね? わかんないや」
「わかんないのに、レモンにしたの?」
「うん。別になんでもよかったんだよ」
「変なの」
「○○ちゃんはなんでイチゴにしたの?」
「イチゴ好きだもん」
「そうなんだ。いいね、それ」
「うん」
私は溶けたかき氷をストローで吸った。海と汗が混じった匂いがした。

 その人と山に行ったとき、松ぼっくりを拾っていた。
「松ぼっくりなんて拾ってどうするの?」私は訊ねた。純粋な疑問だった。左手に持ったビニール袋にはぎっちりと松ぼっくりが入っていた。
「松ぼっくりは、キャンプの時、火の燃料になるんだよ」
その人が言った。右手に持った私が持っているのより大きなビニール袋には松ぼっくりが半分ほど入っていた。
「何で?」
「知らない。誰かが教えてくれたんだ」
「変なの」
「でも、燃料になるのは本当だよ」
「ふーん」
 私は屈んで足元に落ちていた松ぼっくりを拾った。頭の上で木々が葉を揺らした。顔を上げると、その人が笑っていたが、逆光のためよく見えなかった。

 その人と雪だるまを作ったとき、その人の姿は見えなかった。ただ、声だけがすぐそばでしているだけだった。
「名前つけようよ」
 完成した雪だるまを見て、私は言った。
「なんてつけるの?」
「ユッキー」
「いいね」
「ユキロー」
「それもいいね」
「ユッキン」
「いっぱい思いつくね」
「じゃあ、全部合わせてユッキローン」
「おもしろいね」
「でも、やっぱりイチゴが好きだから、イチゴちゃん」
「なにそれ」
 その人が笑った。私も笑った。雪だるまの目にしていた秋に拾った松ぼっくりが片方落ちた。

 その人との春の思い出はなく、夏、秋、冬の思い出も幼い時のものだ。物心がつき始めた以降はその人との思い出は存在しない。
 成人した私は一人外にいた。会社の花見の場所取りだ。一番若手で、一番ジャンケンが弱かったのでこの役目をしている。花見が始まれば座ることが出来ない、ビニールシートの中心で、一人、ビールを飲んでいた。
「○○ちゃん」
 どこからか声がした。振り返ると、誰もいなかった。辺りを見渡してもそれらしい人は見当たらなかった。
 ○○ちゃんとは誰だろう。わからなかった。
 風が吹いた。花びらが数枚舞い落ちてきた。顔を上げた。桜が満開だった。
 その先の太陽が眩しくて目を細めた。なぜだが涙がこぼれた。


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