見出し画像

雨と血と涙とビール


 安いシャンプーの匂いがする雨上がりの街角でギターを弾いている女がいた。
 あと数時間で夜が明けて騒がしい日常が始まるころ、あちらこちらで誰かしらがゲロを路上にまき散らし、小便を放ち、路上を転がり回り、断末魔の鳥みたいな嬌声を上げていた。
空は湿った紙を敷き詰めたみたいな灰色をしている。それと対比するように吐き気がするほど街灯りは眩しかった。
「涙で喉が潤せるなら雨なんて降らなければいいのにね」
 最初は歌詞だと思った。だが、女は僕の顔を見ながらもう一度同じことを言った。僕が驚くとさらに、もう一度言った。
「訊いてるんですか?」僕は言った。
「聴いてくれてるなら、訊いています」女が答えた。
「なるほど」
「で? どう思います?」
 答えることが出来ない。立ち去ろうとした僕を女がまっすぐに見つめる。胸倉を掴まれたみたいに動くことが出来ない。
「涙って血と同じ成分らしいですね」
「はい」
 そうなのかどうかは知らないが、思わずそう答えてしまった。
「だから血の涙って別にめずらしいものじゃないんですよ。泣くたびに血を流しているんですから」
「はい」
「世界中の人間が一日で流す涙ってどれくらいなんですかね?」
「さあ」
「私もわからないです」
「はい」
「世界中で降る雨とどっちが多いんですかね?」
「どうでしょうね」
 女から目をそらしながら答える。聞こえないように舌打ちを打つ。中身が半分ほどになった缶ビールを一口飲んだ。
「世界中の嬉し涙と悲しみの涙どっちが多いか知ってます?」
「さあ」
「嬉し涙らしいですよ。でも、正確に一番多いのは生まれたての赤ちゃんの涙らしいです」
「へえ」
「赤ちゃんの涙って嬉し涙なんですかね、悲しみの涙なんですかね?」
「どうでしょうね」
 誰かの叫び声が聞こえた。パトカーのサイレンがしている。瞼がうっすらと重くなる。ビールを一口飲み、口元を袖で拭う。
「世界中で流れる血ってどれくらいなんですかね?」
「どれくらいなんですかね?」
「涙と同じくらいじゃないですか?」
「でも、涙も血みたいなもんですよね?」
「ですね。じゃあ、とんでもない量になりそうですね」
「ですね」
「ですね」
「雨なんかよりずっと多そうですね」
「ですね」
「ですよね」
 雨が一滴降ってきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?