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ハッピーエンドを期待して

 汗と香水と制汗剤が入り混じった甘ったるい匂いがする。焦げたみたいな真っ黒な夜空に星がチラホラ見える。
 あちらこちらから声が聞こえる。断片的にしか聞き取れないが、皆、楽しそうだった。
 アナウンスが花火の始まりを告げる。
「やっとか」
 となりにいる、由香里が呟いた。
「時間通りだろ」僕は言った。きっと僕にしか聞こえていない。
 夜空を見上げる。「待ってました」「始まるね」「足痛い」「何か食べ物買っておけばよかった」「花火見るの久々だよ」「てか、暑くない?」「タオル持ってない?」「ちゃんと手、握ってなさい」「静かにしなさい」「ちょっと話があるんだけどさ」「仕事休みとれて良かった」
 いたるところから声が聞こえる。どこからか煙草の匂いがした。たこ焼きのソースの臭いもした。足元にはかき氷のカップが落ちている。生ぬるい夜風が頬を撫でた。辺りが少しずつ静まっていく。
夜空を引き裂く音が響き、光の線がくねりながら伸びる。一瞬の静寂。色とりどりの流れ星が飛び交うような花が咲き、爆発音を響かせる。由香里が口を半開きにしてそれを見ている。間抜けな口元に対して目は輝いていた。
間を置かず、次から次へと夜空に花が咲く。刹那的な輝きの残骸みたいな白い煙が消える間もなく夜空を彩る。
「やっぱり、すごいな」
 由香里がまた僕にしか聞こえない声で言った。
「そうだな」
 近くにいる人間に足を踏まれた。痛くはなかった。踏んだ相手を睨んだが、相手は気づいていなかった。僕はため息をついて、夜空を見上げ、
「十一回目だっけ? この花火見るの?」
 由香里は夜空を見上げたまま答えない。花火の爆発音が響く。それに辺りの歓声が混じる。
「来てよかった」由香里が呟く。当然、僕にしか聞こえていない。
「だよな。ありがとうな」
 僕は由香里の手を握ろうと手を伸ばした。

***

 毎年、必ず花火を見よう。雄介とそんな約束をしたのは高校二年の夏だった。
 初めて出来た彼氏という存在だった。友だちから彼氏になった帰り道、屋台でペンダントを買ってもらった。今日と言う記念日に、と雄介は言った。この花火大会に来るときは、これをつけて来てね、と付け加えた。
若かったというだけでは、説明できない痛々しさを持っていた当時の私は、満面の笑みで了承した。もしかしたら飛び跳ねていたかもしれない。思い出すだけでも顔が赤くなる。
 その約束はそれから十年守られた。その間に、関係が彼氏から婚約者になり、互いの左手薬指に指輪がはめられるようになっても変わらなかった。
「いつかは子どもも連れて見られたらいいね」
 十年目の時、雄介が言った。私は、「そうだね」と返した。相変わらず、この人はハッピーエンドで終わる恋愛映画や青春映画の登場人物が言うみたいな台詞を恥ずかしげもなく言える性格をしている。だが、そういうところが好きなところでもあった。そして、そんな雄介のことが好きな私も、ハッピーエンドで終わる映画の登場人物のような、どこか痛々しい人間なのだな、と自嘲した。
 だから自分の人生はハッピーエンドで終わると信じていた。これから先、それなりの苦難や困難はあるだろうが、すべて乗り越えて笑って最期を迎えられると思っていた。
 辺りには子連れやカップルが溢れている。一人で来ている女など私くらいだった。
 ある朝、平日なのにいつもの時間になっても起きてこなかった。昨日の夜、ずっとゲームをしていたから、まだ寝ているのだと思って起こしに行った。
 声をかけても反応が無かった。揺さぶっても目を開けなかった。いつもどおりの寝顔だった。肌が冷たくなっていること以外は。
 聞いたことがない病名だった。ネットで調べても詳しいことはわからなかった。だから、どうすればよかったのか、わからなかった。
 そこから先のことはよく覚えていない。心が張り裂けそうな日々だったはずなのに、思い出せない。泣いてばかりだった気もするし、泣いている暇などなかったような気もする。とにかく、何とか生きてきたとしか言いようがなかった。
 どうしてこんな目に。何でこんなことにといった行く当てのない怒りとやるせなさを最初のうちは背負いきれないと思っていたが、今ではどうにか受け入れて、飲み込んで、心の中の普段は見えないけど、いつでも取り出せる場所にしまってある。ということにしている。本当はどこにあるのか自分でもわからない。雄介の死を受け入れられたのかも正直なところわからない。ただ、私は今日も生きている。そして、これからも生きていかなければならない。それだけはわかっているつもりだ。
 首にぶら下げたペンダントをそっと握り、持ち上げる。約束は守り続ける。これから先もずっと。
 夜風が左手を撫でた。花火が微かに指輪を照らした。

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