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『わたしの街』試し読み

 春休みに入ったわたしの気持ちは、くさくさしていた。就職して初めてもらった自分の肩書を持て余していたのだ。みんな、最初からしっくりくるものだろうか?不安と居心地の悪さから逃げるように旅に出た。大学を卒業して就職が決まってからの長い春休み、行き先は外国と決めていた。せいぜい電車で向かえる場所にしか行ったことのないわたしは、小さな飛行機に乗り込むことにもどきまぎした。ひとり客は少なく、他人の視線ばかりが張りついた、ような気がしていた。到着しても薄暗い雲が空を覆うばかりで、どんよりした気分になってしまう。常夏のようだと聞いていた気温は嘘のように寒く、すぐさま半袖のワンピースに厚手のカーディガンを羽織った。ホテルへと向かうタクシーは信号を守らず、どんどんスピードを上げるのでわたしの心拍数もどんどん上がる。ツアーに申し込んでいたので、しばらくしてから有名な観光地をくまなく回った。自由時間にふらりと入った喫茶店は、古城のような風貌で階段から一階を見下ろすと鯉が泳いでいるのが見えた。四人掛けの美しいソファ席に通されてしまい、あたふたしながらメニューを見つめる。カタコトの日本語で店の人が紹介してくれた、口当たりのいい烏龍茶と人気だというチーズケーキを注文した。頼んだものがくると、さっきの彼女が淹れ方を教えてくれる。まあまあ混雑している店内で、なんだかジーンとしてしまった。「ありがとうございます」と言うと「写真、撮るか?」と訊いてくれた。携帯のデータフォルダには、広い席でピースサインをするわたしと、その前に並んだかわいい茶器の写真が残っている。大げさだけれど彼女のおかげで、この国での思い出が光ったように思えた。
 ツアーの後半で女の一人旅を気の毒に思ったガイドさんに、同じツアーに参加していたグループの男の子を紹介されてしまった。「なんだかすみません…」と謝ると「強引でしたね」と彼は控えめに笑った。ぼちぼち話すうちに、文学が好きなことやおしゃれな古着を買うこと、くせのない標準語を話すことも分かった。なんだかんだ気が合って、最終日の夜にホテルの部屋でごはんを食べることになる。「ね、一緒に東京へ行かない?」と誘う彼に「うん、また今度」と答えた。どうとでもとれる、狡い台詞だ。
 次の日の朝、目をこすりながら彼と近くの定食屋で朝ごはんを食べた。メニューを見てもなにか分からなかったので、バイブスで決めた組み合わせだった。美味しいね、と言いながらたくさんの惣菜を同じ皿の中で分ける。わたしは異国で、一昨日まで知らなかった人間と同じ飯を食べている。昨日の一言に「行きましょうか」と返せば、昨日とは全く違った自分になれるのかもしれない。ねえ、と声を出しかけたところで口を堅く閉じた。彼は皿の半分も食べずに残していた。あの人はこれぐらいの量はぺろっと食べていたな、なんて。それはいいことでもなんでもないけど。飲み込んだ言葉はくるくるとわたしの中を回った。いつでも選んだり選ばなかったりできるのだ、わたしは。これからもどうにでもなれるのだ。ひとり外国のカフェでお茶をすることだって、旅に出てただの観光客になることだって、都会の男の子と仲良くすることだって。なあんだ、とクスリと笑うと彼が不思議そうにこちらを見ている。「いや、旅の醍醐味だな~って」とわたしは言った。

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