組織の中でうねりをつくる
このコラムは2023年MIMIGURIアドベントカレンダーの16日目として記事として山里が担当します。
昨日は小澤美里さんによる『デザイナーは組織学習に寄与できるのか?』でした。
対話の時間がやってくる
こんなことを口にしてはいかんよな…と思いながらも、浮かび上がってきた感情はわたしの中でだんだん無視できない大きさになり、気が付いたときにはくっきりと輪郭をあらわしていた。
MIMIGURIに入社した背景には、組織の課題をなんとか出来ないだろうかという思いがあった。
他社の組織課題にアプローチするMIMIGURIが、自社の組織開発にただならぬ力を入れている様子を目の当たりにして、さすがだ!と思う。
月に1回、半日かけて行う全社会(設計されている臼井さんの記事をぜひ)のような非日常の場はもちろん、1on1やチーム定例、入社された方とのお茶会、プロジェクト振り返りといった、日常の場をひとつとっても対話が軸にある。
正直ちょっと疲れるときもあるけれど、これはわたしが待ち望んでいた環境だ。
入社したばかりの頃、他チームの定例にお邪魔させてもらったことがある。
開始すぐ、「最近心を動かされた出来事/コンテンツは?」というテーマで語り合っていた。彼ら・彼女らは思い思いに発話する。
相手の話に共感を示したり、鋭い問いを投げかけたりと、チーム定例なのに格好良い。
これよこれ、これなのよ。
早く一員になりたくて、意気揚々と会話に乗り込んだ。
わたしは対話に向いていないのか
MIMIGURIに入社するまで、日常に対話がある環境に身を置いた経験はなかった。
最初はよかった。圧倒されながらも、楽しみながら挑んでいた。
しかし半年くらいを過ぎた頃、
「あれ、もしかしてこれずっと続くの?」
「もう被れるお面は全部被っちゃったし、話すことないんですが…」
という感覚に襲われた。
見せたい側面は全部もう見せてしまった。
わたしはお面を被るのを辞めた。というかもう、被れるお面がなかった。
この頃、対話に不慣れな側面とは別に、業務の側面でも焦っていた。
どんどん成長していく組織の中で、わたし個人の出来ることだって確実に増えているはずなのに、一人だけ取り残されている感覚に襲われていた。
そんな中で、自分の学びや成長、展望を語り合う場が来ても、発したい言葉が見当たらない。他の人の話を聞くと焦りが加速していく。
でもMIMIGURIにいるとやってくる。
毎月半日かけて行う全社会。毎週の1on1、チーム定例。プロジェクト定例。どんな場もだいたい対話が大事にされている。
待ち望んだ環境が、自分の首を締め付けるような気がした。
なんの根拠もなく自分のことを対話的な人間だと思っていた。
どうやらそうではなさそうで、対話の場で居心地が悪くなることにショックを受けた。
対話って、みんなが出来るもの・大人ならば当然身につけている態度って感じがしないだろうか。別にそんなことないのだと思い知った。
わたしにとって対話は、格好悪い場なのだと、受け入れるのが最初の一歩だった。
(対話の暴力的な側面や、そこに臨むファシリテーターとしての姿勢は押田さんの記事をぜひ)
格好悪い対話の場
格好悪いままでも場に居ると、稀にハッとする瞬間が訪れる。
たとえばある日の全社会。
今年のプロジェクトの総括のような場で、みんなの活躍が凄いと思うと同時に、自分は果たして十分に価値を出せているのだろうかと感じた。
そんなことを打ち明けたら小田さんから、
と言われた。
この言葉は稲妻のようにピカッと光り、以来ブックマークしてときどき見返している。
存在しない完璧な何かや、凄そうに見える人や物事と相対的に比べてしまいがちなわたしに対して、視点を変えてくれる言葉だと思う。
ポジティブな感情もネガティヴな感情も発露し、相手に関心を持ち、一歩踏み入ることを恐れない人たちの懐の深さに、わたしは何度も救われてきた。
傷ついたり、発言したことを後悔したりしながらも、ちょっとづつ前進していく燃料を貰っていた。
自分で場をつくる
だんだん自分で場を作ってみたいと思うようになった。
わたしはもともとプロジェクトマネジャーというロールで、プロジェクト全体の設計やミーティング進行等を担っていた。
ミーティングの進行の経験はあっても、対話の場をプランニングしたり、ファシリテーションしたり、「場」自体に重点を置いたロールを持つ経験はなかった。
どうして自分で場を作ってみたいと思ったのか。
MIMIGURIのコアに向き合うことで、「対話」への意識であったり、自分自身のものの見方であったり、新しい景色が見えてくるんじゃないかという好奇心が芽生えたからだった。
この変容が起きたこと自体、社内でいろんな人と話して、触発され続け、ケアしてもらっていたからだと思う。
言葉になっていないものを言葉にしたくなる場
なんとも有難いことに、耳子さんがわたしの挑戦をサポートしてくれることになった。
耳子さんと場をプランニングしながら、ワークショップとは何か・対話とは何か・わたしたちは目指しているのか、ときに雑談を交えながら話す時間は本当に楽しかった。
特に印象に残っていることがある。
はじめてワークショップを設計したとき、耳子さんから貰ったのは、
「問いがストレートすぎてひねりがないかも。」
というフィードバックだった。
わたしたちは場作りにおいて問いやコンセプトを工夫する。なぜ工夫するのかというと、
「こういう回答を期待されているんだろう」
と参加者が察して、優等生的な回答ばかりになってしまうと、そこに発見や学びは起きづらい。
例えば、代表の安斎さんによる著書『問いのデザイン』には
という問いが出てくる。
「居心地が良いカフェとは?」とストレートに問われるよりも、
「居心地がよいけど、危険ってどういうこと・・・?」と好奇心がくすぐられる。
問いを工夫することで、対話の場に参加される方が、自分でも気づいていなかったけれど実は思っていたことや、まだ言葉になっていなかったものを言葉にしたくなる場を目指したい。
それがきっと、触発を生み、参加される方にとっての学びにつながるんじゃないか、と。
耳子さんとこういう話をしながらワークショップを作ったり、実施しているうちに、
あ、言葉にしようとする行為は、
まだ答えがわからないものに一緒に向き合う入り口に立つためなのか。だからわたしたちは対話をしているのか。とようやく気がついた。
問いとは何か。なぜ問いを立てるのか。なぜ対話をするのか。
そんなことは知っていると思っていて、でも実感としてよくわかっていなくて、経験することでやっと対話の輪郭が変わってきたのだった。
組織の中でうねりをつくる
組織に属していると、誰が悪い訳でもなく関係性がうまくいかなくなったり、息をしづらくなることがある。
きっとこの感覚は他者と関係性を築く以上、避けられないのだと思う。
ただ、その中で対話を続けることは、居心地が悪くなったり傷つきながら深いところまで沈み、また水面に浮かんで息をするための一連の動作のように感じる。
一連の動作を繰り返しているうちに、たまにピカッと光るものが見つかったり、格好悪く言葉にしているうちに変容の兆しがあらわれたりする。
MIMIGURIの中でわたしが辿ってきた軌道は他者との関わりの中で生まれた小さなうねりだ。
わたしに限らずMIMIGURIの人たちは、自分の違和感や気づきを発露し、他者と関わり合い、触発し合ってうねりを作る。
小さなうねりが波及し合い、組織自体が大きくうねるようだと思う。
これからも他の人と関わるなかで、うねりが生まれていくといい。
組織の中でいろんな人が、多様なうねりを生み出していくことで、どうなるのか見てみたいなと思う。
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明日は、いつか披露されていたギターの演奏が素敵だった、明間さんの記事を予定しています。お楽しみに!
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